2016年7月30日土曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]新潟ー酒田。

鶴岡高専に立ち寄ったあと、酒田市に入る。
ここでも、農家のおじさんに「おれんとこに泊まれ」と声を掛けられて、宿泊。

メモによると
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酒田市福岡502
加藤鉄雄さん

そこに集まっていた

加藤雅明さん
五十嵐徳美さん
本間建夫さん
梅木邦雄さん
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若者同士ですぐに親しくなれたものの、言葉がなかなかわからず、困った。




2016年7月29日金曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]宮崎―新潟。葡萄峠にて。

葡萄峠にて

当時、日本海側では一級国道(国道7号)といえでも、舗装されていなかった。





 葡萄峠という峠(朝日村)がある。近くに葡萄(ぶどう)という集落があるので、これが名称の由来という。

 朝日村は、新潟県の北部に位置する。朝日村の南には、村上市がある。国道7号は、新潟市から青森市まで通っているが、朝日村の位置関係は、新潟市~新発田市~村上市~朝日村~鶴岡市~酒田市・・・ということになる。


2016年7月28日木曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]金沢―富山県朝日町宮崎


金沢市から富山へ

富山高専に立ち寄り、ひたすらべダルを漕いだ。
夜になって、行き場がなくなり、宿泊を頼み込んだのが、朝日町宮崎の宮崎自然博物館?だった。
その2階の空き室を提供してもらったことをぼんやりと覚えている。

宿泊先のメモには
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富山県下新川郡朝日町宮崎

九里道守
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とある。

 いまでは、朝日町はヒスイ海岸として著名のようだ。だが、夜の海岸で、公民館の周辺で夏祭りが開かれていたような光景がぼんやりと浮かぶ。



2016年7月27日水曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]加賀―金沢。

加賀市内の警察駐在所の近くで野宿したあと、中学時代にグループで文通していた女生徒と会う。

当時は、中学生むけの雑誌「中一コース」(学習研究社)の読者投稿欄で、読者の文通が盛んだった。
私も宮辺信一、藤本信久両君と3人で、石川県加賀市の女子中学生3人とグループ文通していた。インターネットなどない時代だから、手紙による近況紹介などに胸をときめかせていた。
その相手の石川陽子さん、滝祥子さん、谷口則子さんと対面した。


金沢・兼六園にて。

2016年7月26日火曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]大津―加賀。

大津市の拾井さん宅から「お米を持っていけ」といわれ、食料を補給しながら、琵琶湖の西岸を走り、北陸路へ。

途中、鯖江市にある福井高専にも立ち寄る。
といって、校門にある守衛室で印を押してもらっただけのこと。























確かこの日の夜は、石川県加賀市内の駐在所の近くの路地で野宿した。

2016年7月25日月曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]茨木―大津。


茨木をでて、京都御所で中学時代の級友、松高清くんと会う。松高くんは、中学卒業とともに松下電器産業の社員養成機関「松下工学院」に入社。学業と技術習得とラグビーに打ち込んでいた。

















京都から大津に向かい、琵琶湖のほとりにたどりつく。
ほんやりと夕日を眺めながら、野宿先をさがしているとき、人のよさそうなおばさんに声をかけられる。
「どこからきたん?」
「九州の熊本からです」
「どこに泊まるの?」
「まだきめてません」
「ほな、うちとこに来たら?」
と近くの農家に連れていかれた。
見知らぬ人間に気さくに声をかけ、自宅に泊めるなんて・・当時は本当にいい時代だった、と思う。

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大津市下坂本町川崎
拾井与太郎さん
   たま  さん
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そこの息子さんが、大津商業の野球選手として甲子園出場を果たし、その額が飾ってあったのを思い出す。
また、その翌年の夏だったか、別の息子、国正さんが、私に刺激されたのか、サイクリングで熊本の自宅に訪ねてくれた。

2016年7月24日日曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]茨木市

大阪府茨木市に住む従兄の池田徳星さん宅にたどり着く。
 九州熊本・荒尾を出発して5日目。

 やっとまともな食事にありつけた。

 当時、徳星さんは、建設会社間組(現ハザマ)に勤務して、会社の社宅住まいだったが、歓迎してくれた。
 長女は知子さん、長男は隆安さんと、なぜかわたしの名前の一文字ずつをとっていたので、特別の親しみがわいたことを思い出す。

 朝のテレビから「おはなはん」の音楽がながれていた。おはなはん役の樫山文枝の清楚でかわいらしい姿にあこがれた。



2016年7月23日土曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]姫路―茨木。

姫路城前にて。

当時のメモ帳によると、

サイクリングで顔を合わせたのは、
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所沢市上新井453の2
森田正雄さん
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とある。
 記憶は不鮮明だ。

さらに姫路から大阪に向かう途中に
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大牟田市馬渡町14
宮崎正美さん
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にも世話になったようだ。




2016年7月22日金曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]西条―姫路


○コーラ記念日

山陽道を走っているとき、コカ・コーラの配送車の運転手に「がんばれよ」と声をかけられ、コーラをご馳走になる。
コーラを飲むのは生まれてだった。うがい薬を炭酸で割った妙な飲み物で、おいしいとは少しもおもわなかった。

ということで、この日は私のコーラ記念日。

コーラの発売について調べてみると、日本コカ・コーラによれば、

日本で初めて「コカ・コーラ」が販売されたのはいつですか?

大正3年(1914年)に出版された詩人・高村光太郎の処女詩集<道程>のある作品には、早くも「コカ・コーラ」の名が見られます。しかし、日本で「コカ・コーラ」の製造販売が本格的に始まったのは昭和36年(1961年)のことです。
ということで、私が飲んだのは日本で発売されて5年後のことでした。


○後楽園にて

















○姫路にて

中学時代の友人、山村保文君が姫路市の飾磨の仕事先を訪ねたと思う。

2016年7月21日木曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]徳山―西条(広島)。

岩国・錦帯橋にて








広島・平和記念公園にて。

別々に自転車の旅をしていた有明高専の同級生、石田帝力君と広島の慰霊碑の前でばったり。

「ヒロシマ」についての問題意識は薄いまま、単なる「名所」として立ち寄っただけだった。

原爆資料館を見学したあと、ひたすらペダルを漕ぎ、西条市内で野宿。

(備考)
その後、ヒロシマと向き合ったのは、1985年夏、毎日新聞社会部の核問題取材班に加わってから。
そのときの連載記事は
「非核の旅」
http://ikedatomotaka.main.jp/swfu/d/genbaku1983.pdf

毎日新聞社説「原爆の日」を3,4回執筆。

野宿して食事。当時は、コンビニなんてものはなく、いつもインスタントラーメンをすすっていた。


2016年7月20日水曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]北九州―徳山泊。

50年前の今日。徳山泊。

熊本県荒尾市の自宅をでて、2日目でもう山口県徳山市まできている。あらためてその若い馬力に自分のことながら驚かされる。

事前に徳山市の教育委員会あてに往復はがきで、自転車の旅の途中、徳山市の学校の宿直室に泊めていただけないか、と問い合わせていた。

その前年の西日本一周の自転車の旅では、飛び込みで学校の宿直室に泊めてもらっていたので、あつかましいが、ダメ元で頼んでみたのだった。

ところが、徳山市教育委員会から親切に宿泊先を提供するとの返事があった。頼むほうも、無鉄砲で、身勝手なものだが、それに応えるほうも応えるほうだと思う。鷹揚というか、あっさりと受け入れてくれたのである。いまの時代では考えられないような、心優しい対応だった。

実際に徳山市についてみると、これまたびっくり。宿泊先として、なんと文化財級の公民館を用意してあったのだ。
管理人は、結婚したばかりの若いご夫婦(たしか藤井さんといったかな)だった。

おお、なんという親切さだ と感激しっ放し。そのときから、日本という国は捨てたものじゃない、と楽観的な社会観がみについたのかもしれない。





2016年7月19日火曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]荒尾ー北九州・折尾

50年前の今日。17歳、日本一周の自転車旅行に旅立つ。


「記憶は財産でもある。

忘れるのは、心を亡くすと書く。
記憶をたどるのは、亡くした心をとりもどすことでもある」

 (映画「アリスのままで」から)




  50年前、日本一周の自転車旅行に旅立った。17歳の夏だった。
 56日間かけたの旅だったが、ただただ体内に満ちていたエネルギーを爆発させるかのように、ひたすらべダルを漕いだ。


 日本各地でいろんな人たちと出会い、お世話になった。
それから10年後、20年後、お世話になった人たちを訪ねる旅をやりたいとおもいながら、いつしか50年もの歳月が過ぎてしまった。

  日本各地で出会った人々も風景もすっかり変わってしまっていることだろう。とりあえず、記憶をとどめておこうと、WEB上に記録を残しておきたい。                


アルバムから





























第一日目は、熊本県荒尾市の自宅を出発して、一気に北九州市まで走る。最初にお世話になったのは、有明高専の級友、藤河君の実家だった。
当時、高専制度2期校として福岡県と熊本県の県境に開校して有明高専には、北九州から鹿児島まで九州一円から学生が集まっていた。
 


2016年7月18日月曜日

[50年前の今日。日本一周自転車旅行途上で]17歳、自転車日本一周に向かう前夜。

50年前の今日。17歳で、自転車による日本一周に向かう前夜だった。

あれから半世紀という長くて、短いような歳月が過ぎた。
いまとなっては「ほんの昨日こと」のようでもある。

ちょっと自分勝手に感傷的な気分に浸りながら、あの旅をふりかえってみたい。
56日におよぶ自転車での一人旅。日本のあちこちでざまざまな人と出会い、お世話になった。

旅を終えて、10年後、20年後、各地を再訪しながらお世話になった人たちにお礼をしていきたいとも考えていた。しかし、それも果たせぬ夢となってしまった。
ひとまず、WEB上での「センチメンタル・ジャーニー」(感傷旅行)をしてみよう。

17歳の夏、とにかく元気だった。
国立有明工業高等専門学校電気工学科の3年生。中学時代の友人たちが、受験勉強に追われているのを見ながら、旅にでた。

高専時代のクラスメートとの深夜の激励会。
(水盃どころか、ビールを飲んでいるが、未成年飲酒といっても、もう時効!。でも、あのころ、酒を飲むのは、そんなにどうってことなかった)

50年前の1966年は、ビートルズの来日公演で、日本中の若者の人気を集めたが、九州の片田舎にいた私には、他人事にすぎなかった。日本武道館での公演で6月30日から7月2日、少年少女6520人が補導されたそうだ。

この年のNEWSをみると、

1月、早大学費闘争で155日スト
3月4日、カナダ太平洋航空機、羽田空港防波堤に激突。
3月5日、羽田発のBOAC機、富士山上空で空中分解。
8月18日、中国、文化大革命。天安門広場前で紅衛兵100万人集会
11月13日、松山空港沖で全日空YS11型機墜落

この年には航空機事故が目立っている。

そのほかNHKの朝ドラ「おはなはん」、朝日新聞の懸賞小説「氷点」などをよく覚えている。

この年の映画では
「人類学入門」「紀ノ川」「白い巨塔」「けんかえれじい」「男と女」「幸福」「ドクトル・ジバコ」「戦争と平和」「おしゃれ泥棒」など


2016年7月1日金曜日

「なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか 西洋と日本の歴史を問いなおす」(関曠野、聞き手三室勇)


(いただいた本から)
大阪自由大学で読書カフェを開いていただいている友人の三室勇さんが、思想家、関 曠野さんの本をまとめられました。

9月22日(木。祝日)にキャンパスプラザ京都(JR京都駅前)で出版記念講演会が開かれる予定です。

「なぜヨーロッパで資本主義が生まれたか:西洋と日本の歴史を問いなおす」

関 曠野 (著) 聞き手:三室勇

内容紹介

『プラトンと資本主義』から三〇数年。思想史家・関曠野の集大成。『プラトンと資本主義』『ハムレットの方へ』で衝撃的なデビューを果たし、その後も一作ごとに斬新な問題提起を行ってきた関廣野。その長年に渡る思索を総決算する(聞き手:三室勇)。

また日本史についても従来の歴史観をするどく批判し、今後、日本人が「歴史」と向き合う指針を提示する。

内容(「BOOK」データベースより)
我々は資本主義を本当に理解しているか?左翼‐右翼、進歩‐保守の座標軸は、も
はや無効である。問題の本質は「グローバル」対「ローカル」にある。思想史の
視点から世界史・日本史の「常識」を覆す。

著者について
【著者略歴】
関 曠野(せき・ひろの):1944年東京生まれ。早稲田大学文学部を卒業後、共同通
信社に入社し、名古屋支社、国際局海外部などをへて1980年からフリーランスの
文筆業。著書に『プラトンと資本主義』(北斗出版、絶版)『フクシマ以後――エ
ネルギー・通貨・主権』(青土社9784791766222)など多数。

三室/勇
1945年生まれ。20歳代に雑誌『新日本文学』の編集、その後、せりか書房、フィ
ルムアート社など書籍編集に携わった後、医療関係の広告代理店に勤務し、30歳
代後半から医療・医学分野のフリーランス・ライターとなり、現在に至る(本デー
タはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)


単行本: 291ページ
出版社: エヌティティ出版 (2016/5/30)
言語: 日本語
ISBN-10: 475714346X
ISBN-13: 978-4757143463
発売日: 2016/5/30