2017年3月30日木曜日

「炭鉱の記憶と関西ー三池炭鉱閉山20年展ー」に向けたプレ上演会から。本展まであと1カ月です。

炭住落語「あの日の炭坑節」
3月30日(木)午後6時半~「みつや交流亭」で開かれた炭住落語のプレ上演会に参加しました。
みつや交流亭(〒532-0036 大阪市淀川区三津屋中1-4-29)

5月5日(金・祝)~9日(火)、エルおおさか9階ギャラリーで開催の「炭鉱の記憶と関西─三池炭鉱閉山20周年─」(主催:エル・ライブラリー、関西・炭鉱と記憶の会)での上演本番に向けて、作・上演は笑福亭仁勇師匠。三池炭鉱を支えた労働者が生活した炭鉱住宅をテーマに。

○炭住落語「あの日の炭坑節」(1部)
https://www.youtube.com/watch?v=nFHQHV6fQQ8

〇「炭鉱社宅の想い出ー三池炭鉱労働者の娘としてー」(東川絹子さん)

https://www.youtube.com/watch?v=UKA_lDG6c7k&t=2084s








2017年2月21日火曜日

『「現在」に挑む文学―村上春樹・大江健三郎・井上光晴ー』をいただいて

(いただいた本から)
『「現在」に挑む文学―村上春樹・大江健三郎・井上光晴ー』松山愼介著

 「10・8山崎博昭プロジェクト」の関西運営委員会の世話人をしているN氏から新著をいただいた。

 表題の『「現在」に挑む文学』について、
「『現在』においては、我々が対決すべきものの姿は明白ではない。一九六八年を中心とする時代においては、敵はアメリカのベトナム戦争を支持する日本の国家権力であり、その具体的現れとしての警察機動隊という暴力装置であった。だが八〇年代から現代にかけて世界のグローバル化は一段と進み、『現在』の敵は不可視のも(の)となっている。この『現在』と対決するものとして文学の役割は大きい。むしろ文学こそが、その役割を果たせるのではないだろうか」
 と語り、3人の文学者を論じている。

 一読し、村上春樹と同時代にキャンパスの空気を吸っていたことをあらためて思い起こしながら、筆者の克明な読み解きに感心した。さらに井上光晴について谷川雁との交流、政治と文学について考えさせられた。

出版社の紹介文から
●内容紹介
世界史の構造が生々しく、劇的に変化する現代社会。遠い世界の出来事が日々、この島国日本にも打ち寄せる。もはや政治だけでは解決できない問題が洪水のように存在する時代になった。個人が世界と向き合う時代である。 著者は、村上春樹・大江健三郎・井上光晴、3人の作家が「現在」にどのような姿勢で挑んでいるのかをテーマに、「死と戦争」について深く思索する。あらためて今日的な文学とは何か、という視点も提起している。 ー――今日を生きる若者へーーー 政と性と生の「現在」をえがいた三人の作家。“日本"“戦争"“個人"の時代が立ち上がる痛快な文学的入門書。

●内容(「BOOK」データベースより)
今日を生きる若者へ!!―政と性と生の「現在」をえがいた三人の作家。“日本”“戦争”“個人”の時代が立ち上がる、痛快な文学的入門書。

単行本: 374ページ
出版社: 響文社 (2017/1/13)
言語: 日本語
ISBN-10: 4877991298
ISBN-13: 978-4877991296
  


2017年1月15日日曜日

追悼集「不条理ながら―呉徳洙監督を偲んで」をいただいて

追悼集「不条理ながら―呉徳洙監督を偲んで」をいただいて



 大阪自由大学読書カフェの案内人をしていただいている三室勇さんから追悼集「不条理ながら―呉徳洙監督を偲んで」をいただいた。最近、周囲の知人もよく他界していき、追悼集をいただく機会が多くなったが、さまざまな人生模様を知ることができ、興味深い。 

 三室さんが長年、親交を重ねてきた呉監督は記録映画「戦後在日50年史ー『在日』」などで知られ、2015年12月13日、74歳で亡くなった。

 呉監督は秋田県鹿角市出身で、早稲田大学を卒業後、大島渚監督の助監督となった。

 代表作の『在日』は、記録映像とさまざまなインタビューで50年の歴史を追う「歴史編」と一世、二世、三世と6人の在日朝鮮人にスポットあてた「人物編」からなる。日本映画ペンクラブ(ノンシアトリカル映画部門)1位、1998年度キネマ旬報文化映画ベストテン第2位になっている。4時間20分。

 この追悼集には「戦後70年、映画の中で在日はどのように描かれてきたか」と題した講演録を収め、そこで呉監督のベストスリーとして
1、「月はどっちに出ている」崔洋一監督
2、「GO」行定勲監督
3、「あれが港の灯だ」今井正監督
 をあげている。

 三室さんは呉監督が残した膨大な資料ファイル、書籍、手紙類の整理を依頼された。呉監督は自ら書いたハガキ、手紙のコピーを残しており、三室さんは、「呉さんが書いた手紙」と題して6ページにわたって手紙の内容を紹介し、呉監督を偲んでいる。

発行は編集委員会
〒157-0064
東京都世田谷区給田3-9-2-108
発行日 2016年12月11日


頒価 1000円(送料別)


2017年1月9日月曜日

追悼集「桝居伸子の生涯―光のなかを歩む」をいただいて。

追悼集「桝居伸子の生涯―光のなかを歩む」をいただいて。

 新年の賀状にまじって、冊子が送られてきた。奈良市在住の桝居孝さんからだった。
 桝居さんは、1979年4月、新聞記者だった私が大阪府教育委員会を担当したときの教育長だった。それからもう38年、賀状の交換を続けている。

 添えられたはがきに妻の伸子さんが昨年6月2日、83歳でなくなったとあった。伸子さんは17年間、大阪YWCAの理事長などを務められ、追悼集にはその多難な生涯が綴られていた。
 桝居さんとの出会い、戦時中、戦後の厳しい暮らし、それぞれの親の介護などが書かれていたが、特に印象に残ったのが伸子さんの満州における体験だった。

 敗戦直前の満州国の首都、新京(現在の長春)にいた伸子さんたち一家は、ソ連軍の侵攻で石炭を積んだ貨車に乗って南下、8月15日は朝鮮との国境の街、安東に着いた。そこで終戦を聞き、12月まで空き家に住んだという。
 そのころ、伸子さんは鴨緑江の川のほとりで喜びの歓声を響かせながら橋を渡っていく人々を見た。その中には日本人もいたそうだ。その時、これらの人々と橋を渡り、対岸の朝鮮の地に入った日本人の多くは、故国に帰れなかったらしい。

 伸子さんたちは再び、新京に戻り、ソ連に続いて毛沢東の率いる共産軍と国府軍との戦闘を垣間見ながら、翌46年8月に帰国の途につき、11月に日本にたどり着いた。
 この満州での過酷な体験が、伸子さんの「生涯に続くアジアへの関心に繋がったのであろう」と桝居さんは記している。
 その難民としての一瞬の判断、いわゆるが「運」がその人生を決めてしまうことを改めて教えられた。

 その後、伸子さんはお茶の水女子大を出て、女子学院(東京)の社会科の教員になり、桝居さんと出会うことになった。自治省の官僚だった桝居さんの大阪府庁勤務を機に関西に住むようになり、キリスト教会に通い続けていた。

 また桝居さんは大阪国際児童文学館の創設に深くかかわり、児童文学への造詣も深いことに私は感心させられていたが、この冊子を通して、鹿児島県庁に勤務当時、県立図書館長であった久保田彦穂(筆名、椋鳩十)や、同館奄美分館長だった作家の島尾敏雄さんとの交友があることを知った。

 さらにいえば、桝居さんの父、桝居伍六は、戦前、英字紙・ジャパンタイムスの論説主幹として健筆をふるい、上智大学の政治学の教授を務めていた。が、軍部からの香港での英字紙発行を依頼を断ったことで貧窮のどん底に陥り、戦後間もない45年10月に亡くなったという。

 さまざまな人生の背後にある時代の大きな流れにもまた考えさせられた。