「家の会」記録誌合評会
2016年10月30日@京都・下京区いきいき市民活動センター
哲学者、鶴見俊輔さんを囲む市民サークル「家の会」の記録誌ができ、合評会が行われました。
その会の活動について「『限界学問』という開かれた場」だったという三室勇さんの批評が興味深く、ここに記しておきます。
家の会1961-1999」合評会2016.10.30
「限界学問」という開かれた場
完成した冊子の第一印象は、読み応えのある文章が詰まっていて、いい出来ではないかと思った。鶴見さん、北沢さんは何と言われるだろうか。
編集世話人代表を引き受けていただいた今村浩太さんの「はじめに」は、簡潔で過不足のないよい紹介文である。同じ今村さんの書いた「家の会私記」に出てくる鶴見さんの「限界芸術、限界政治というのがあって限界学問というのがある。このサークルはそういう場」という言葉に、なるほどと私は納得した。
鶴見さんの「限界芸術」という言葉は、「marginal art」がまず頭にあって、それを日本語にしたものではないか。日本語の「限界」には上限下限といった使い方があるように縁に広がりがないように感じる。marginal(辺縁)には日本家屋の濡れ縁のような外に向かっての広がりがあるように感じる。これは私の勝手な思い込みかも知れないが。学問として対象にならない生活に溶け込む領域を敢えて考える対象にする。家の会の報告には、そうした面白さがあったように思う。
56ページから始まる鶴見さんの「変型家族について」のレジュメもそうした一例ではないか。戦後、正統家族となった核家族がもつ困難さに比して、変型家族には困難もあるが、可能性もあるといった見方は、示唆に富んでいる。
笠原芳光さんのインタビューを読んでいて、笠原さんの話のあとにくる「ふふふ」という笑いで、一気に笠原さんの声と表情が浮かんでくる。そして私は和む。もう何年もお会いしていないが、まさに現前する。それが不思議だ。
「家の会」は鶴見さんが一つの柱だった。亡くなった鶴見さんへの思いはそれぞれが持っているはずだ。鶴見さんを語る文章が5本並んでいる。落合さんの『期待と回想』にふれた話に頷く自分がある。鶴見さんは1955年の雑誌『思想』に「ロバート・レッドフォード『小さなコミュニティー』」という紹介文を書いていた。
これは当時「思想の科学」のグループが取り組んでいた「集団の伝記」「小社会の伝記」に役立つものとして、この文化人類学者の方法を捉えていたようだ。鶴見さんはその後、ずっとこの方法を繰り返し考え続けたように思う。そして後年になって、「期待の次元」「回想の次元」へと発展させたのではないか。
そのように私は受け取った。それと鶴見さんの言葉についての考えが「すながの」に反映しているように感じた。鶴見さんの言葉についての考え方、これはすっと受け取りがたい難しさがある。その一部は真継伸彦の『鶴見俊輔著作集』(第五巻筑摩書房)の解説にでてくる。鶴見さんは独特の「ナンセンス詩」を書かれているが、その根にあるものに通じている。
塚崎さんの書かれた「鶴見先生のまなざし」は、鶴見さんの怖い部分、というか、あまり人には見せない素の鶴見さんを描き出して、充分読み応えがあった。
この冊子には、物故者5人の想い出が分担して書かれている。斎藤雷太郎さんを高橋さん、今村忠生さんを落合さん、八木康敞さんを那須さん、井上美奈子さんを北村さん、北沢恒彦さんを三室が書いている。この先立たれた方たちが実に変わっている、というか、変人すれすれ、いや変人なのかも、と思う。これは、私は「普通」という基準でだが。だから面白い。
鶴見さんは「家の会を性格破綻者の集まり」と言ったとか、これは褒め言葉に違いない。変人は貴人に通じる。江戸期の伴蕎蹊の『近世畸人伝』、戦後の石川淳の『諸国畸人傳』と騎人を偏愛してきた私としては実に恵まれた環境にあったことを今更ながら喜んだ次第である。「家の会物故者畸人列伝」が後世に編まれるかもしれない。これぞ「限界学問」として残る仕事になるのではないか。ここは独り言である。
この冊子が出来てきて、ページをめくって、冒頭の6葉に写真にまず釘付けになった。私は北沢さんについて書いた手前、北沢さんを写真の中に探した。右ページの上段の写真は、真ん中に立ち態度がでかい。その下の写真は左端に立ち、微笑んでいる。藤子不二雄の「忍者ハットリくん」顔である。
左ページの上では、ちょっとムッツリ顔をされている。その下の写真になると後方から覗き込むような北沢さんの姿が写っている。これはたまたまかも知れないのだが、この位置取りの変化に北沢さんを感じた。
この冊子の発案者、そして制作の実務を担ってくれた三人、今村さん、野口さん、那須さんには感謝したい。私が「家の会」に出席するようになった1984年頃とほぼ同時期に参加された方たちだと思う。それから30年は経つ。
東京から全く知り合いのない京都に来て、「家の会」に出会ったことに感謝している。
(三室勇)
編集した今村浩太さんの「はじめに」を引用させていただきます。
はじめに
今村浩太
家の会は、一九六一年から九九年まで四〇年近くにわたって京都で続けられてきたサークルである。
始まりは、日米安保条約の強行採決に抗議して東京工大を辞職したのち、同志社大学に赴任していた鶴見俊輔さんを、北沢恒彦さんが研究室に訪ねたことだった。北沢さんは当時製パン店勤務、根底的な現実把握に基づく革命の条件を模索し、自分がその文章を愛読してきた鶴見さんの来京とともに、何かを始めたいという切実な想いがあった。鶴見さんは、観念的な飛躍によってはそのどうしようもなさを乗り越えることができない、家という場をめぐる話し合いの場を発案された。既成キリスト教団に対する急進的批判を繰り広げていた笠原芳光さんも発起人に加わった。
会場は、当初同志社の鶴見研究室、鶴見さんの同志社辞職後は、主に京大楽友会館だった(最後の数年間は京大会館)。金曜の夜に月一回の例会。参加人数は少数のこともあったが、平均一〇~一五人くらいか。担当者による一時間程度の報告、そしてフリー・ディスカッションという形態が、大まかに守られた。普段の例会のほか、夏の合宿、冬の忘年会があった。柳谷俊さん、三舩温子さんののち、安森ソノ子さんが長く世話人を務められた。
来るものは拒まず、去る者は追わずという流儀で、会員資格というものはなかったが、取り上げられる主題、会の雰囲気には、幾らかの変遷がみられる。その概要は、本誌巻末付録年表「増補版家の会の歩み」を参照されたい。
他の様々な複数のサークル、集まりとの緩やかなつながりもこの会の特徴である。「人形の会」(『思想の科学』京都読者の会)、「リード・イン.四季」他と人的つながり、交流があった。また、会のメンバーの一部は、「京都べ平連」に重なっていた。全国サークル『山脈』とも連携が深い。一九九九年の解散後は、高橋幸子さん発行の『はなかみ通信』、鈴木金雪さん発行の『二流文学』が、その後の一部のメンバーをつないできた。
全期間にわたってではないが、会報『家』が長く発刊され、九五年に特別号が編まれ、貴重な証言、記録を多く収めている。また『思想の科学』誌上には、例会の開催案内が毎月掲載されるだけでなく、編集や投稿に多くのメンバーが関わった。特に一九七三年一〇月の別冊『家』、一九八一年七月の臨時増刊号『家』は会の数名が編集を担当し、メンバーからの投稿が多く掲載されている。
四〇年のあいだ、戦後の思想家としても異例と思われる精勤をこの会に向けられた鶴見さんは、その打ち込みを、著書『家の神』(淡交社)、論文「家のパラドクス」(シリーズ『変貌する家族3』岩波書店所収)をはじめとする果実に結びつけられた。
二年ほど前に、野口良平さんより「会に余力があり、記憶が薄れないうちに冊子を編もう」という発議があり、今村が呼びかけ人を務めさせていただき、昨年一月ころから有志で編集会議を重ねて、このたびの発刊となった。
編集の途上で、鶴見俊輔さんが永眠された。深く冥福を祈りたい。
二〇一六・五・三