追悼集「桝居伸子の生涯―光のなかを歩む」をいただいて。
新年の賀状にまじって、冊子が送られてきた。奈良市在住の桝居孝さんからだった。
桝居さんは、1979年4月、新聞記者だった私が大阪府教育委員会を担当したときの教育長だった。それからもう38年、賀状の交換を続けている。
添えられたはがきに妻の伸子さんが昨年6月2日、83歳でなくなったとあった。伸子さんは17年間、大阪YWCAの理事長などを務められ、追悼集にはその多難な生涯が綴られていた。
桝居さんとの出会い、戦時中、戦後の厳しい暮らし、それぞれの親の介護などが書かれていたが、特に印象に残ったのが伸子さんの満州における体験だった。
敗戦直前の満州国の首都、新京(現在の長春)にいた伸子さんたち一家は、ソ連軍の侵攻で石炭を積んだ貨車に乗って南下、8月15日は朝鮮との国境の街、安東に着いた。そこで終戦を聞き、12月まで空き家に住んだという。
そのころ、伸子さんは鴨緑江の川のほとりで喜びの歓声を響かせながら橋を渡っていく人々を見た。その中には日本人もいたそうだ。その時、これらの人々と橋を渡り、対岸の朝鮮の地に入った日本人の多くは、故国に帰れなかったらしい。
伸子さんたちは再び、新京に戻り、ソ連に続いて毛沢東の率いる共産軍と国府軍との戦闘を垣間見ながら、翌46年8月に帰国の途につき、11月に日本にたどり着いた。
この満州での過酷な体験が、伸子さんの「生涯に続くアジアへの関心に繋がったのであろう」と桝居さんは記している。
その難民としての一瞬の判断、いわゆるが「運」がその人生を決めてしまうことを改めて教えられた。
その後、伸子さんはお茶の水女子大を出て、女子学院(東京)の社会科の教員になり、桝居さんと出会うことになった。自治省の官僚だった桝居さんの大阪府庁勤務を機に関西に住むようになり、キリスト教会に通い続けていた。
また桝居さんは大阪国際児童文学館の創設に深くかかわり、児童文学への造詣も深いことに私は感心させられていたが、この冊子を通して、鹿児島県庁に勤務当時、県立図書館長であった久保田彦穂(筆名、椋鳩十)や、同館奄美分館長だった作家の島尾敏雄さんとの交友があることを知った。
さらにいえば、桝居さんの父、桝居伍六は、戦前、英字紙・ジャパンタイムスの論説主幹として健筆をふるい、上智大学の政治学の教授を務めていた。が、軍部からの香港での英字紙発行を依頼を断ったことで貧窮のどん底に陥り、戦後間もない45年10月に亡くなったという。
さまざまな人生の背後にある時代の大きな流れにもまた考えさせられた。
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