2017年1月15日日曜日

追悼集「不条理ながら―呉徳洙監督を偲んで」をいただいて

追悼集「不条理ながら―呉徳洙監督を偲んで」をいただいて



 大阪自由大学読書カフェの案内人をしていただいている三室勇さんから追悼集「不条理ながら―呉徳洙監督を偲んで」をいただいた。最近、周囲の知人もよく他界していき、追悼集をいただく機会が多くなったが、さまざまな人生模様を知ることができ、興味深い。 

 三室さんが長年、親交を重ねてきた呉監督は記録映画「戦後在日50年史ー『在日』」などで知られ、2015年12月13日、74歳で亡くなった。

 呉監督は秋田県鹿角市出身で、早稲田大学を卒業後、大島渚監督の助監督となった。

 代表作の『在日』は、記録映像とさまざまなインタビューで50年の歴史を追う「歴史編」と一世、二世、三世と6人の在日朝鮮人にスポットあてた「人物編」からなる。日本映画ペンクラブ(ノンシアトリカル映画部門)1位、1998年度キネマ旬報文化映画ベストテン第2位になっている。4時間20分。

 この追悼集には「戦後70年、映画の中で在日はどのように描かれてきたか」と題した講演録を収め、そこで呉監督のベストスリーとして
1、「月はどっちに出ている」崔洋一監督
2、「GO」行定勲監督
3、「あれが港の灯だ」今井正監督
 をあげている。

 三室さんは呉監督が残した膨大な資料ファイル、書籍、手紙類の整理を依頼された。呉監督は自ら書いたハガキ、手紙のコピーを残しており、三室さんは、「呉さんが書いた手紙」と題して6ページにわたって手紙の内容を紹介し、呉監督を偲んでいる。

発行は編集委員会
〒157-0064
東京都世田谷区給田3-9-2-108
発行日 2016年12月11日


頒価 1000円(送料別)


2017年1月9日月曜日

追悼集「桝居伸子の生涯―光のなかを歩む」をいただいて。

追悼集「桝居伸子の生涯―光のなかを歩む」をいただいて。

 新年の賀状にまじって、冊子が送られてきた。奈良市在住の桝居孝さんからだった。
 桝居さんは、1979年4月、新聞記者だった私が大阪府教育委員会を担当したときの教育長だった。それからもう38年、賀状の交換を続けている。

 添えられたはがきに妻の伸子さんが昨年6月2日、83歳でなくなったとあった。伸子さんは17年間、大阪YWCAの理事長などを務められ、追悼集にはその多難な生涯が綴られていた。
 桝居さんとの出会い、戦時中、戦後の厳しい暮らし、それぞれの親の介護などが書かれていたが、特に印象に残ったのが伸子さんの満州における体験だった。

 敗戦直前の満州国の首都、新京(現在の長春)にいた伸子さんたち一家は、ソ連軍の侵攻で石炭を積んだ貨車に乗って南下、8月15日は朝鮮との国境の街、安東に着いた。そこで終戦を聞き、12月まで空き家に住んだという。
 そのころ、伸子さんは鴨緑江の川のほとりで喜びの歓声を響かせながら橋を渡っていく人々を見た。その中には日本人もいたそうだ。その時、これらの人々と橋を渡り、対岸の朝鮮の地に入った日本人の多くは、故国に帰れなかったらしい。

 伸子さんたちは再び、新京に戻り、ソ連に続いて毛沢東の率いる共産軍と国府軍との戦闘を垣間見ながら、翌46年8月に帰国の途につき、11月に日本にたどり着いた。
 この満州での過酷な体験が、伸子さんの「生涯に続くアジアへの関心に繋がったのであろう」と桝居さんは記している。
 その難民としての一瞬の判断、いわゆるが「運」がその人生を決めてしまうことを改めて教えられた。

 その後、伸子さんはお茶の水女子大を出て、女子学院(東京)の社会科の教員になり、桝居さんと出会うことになった。自治省の官僚だった桝居さんの大阪府庁勤務を機に関西に住むようになり、キリスト教会に通い続けていた。

 また桝居さんは大阪国際児童文学館の創設に深くかかわり、児童文学への造詣も深いことに私は感心させられていたが、この冊子を通して、鹿児島県庁に勤務当時、県立図書館長であった久保田彦穂(筆名、椋鳩十)や、同館奄美分館長だった作家の島尾敏雄さんとの交友があることを知った。

 さらにいえば、桝居さんの父、桝居伍六は、戦前、英字紙・ジャパンタイムスの論説主幹として健筆をふるい、上智大学の政治学の教授を務めていた。が、軍部からの香港での英字紙発行を依頼を断ったことで貧窮のどん底に陥り、戦後間もない45年10月に亡くなったという。

 さまざまな人生の背後にある時代の大きな流れにもまた考えさせられた。


2016年11月27日日曜日

【写真集】 遺された家―家族の記憶 (太田順一 文/写真)について。

(お送りいただいた本から)

【写真集】 遺された家―家族の記憶
太田順一 文/写真

大学時代の級友で写真家の太田順一さんから最新刊が送られてきた。
「遺された家」を、それまで住んでいた人の暮らしを伝える「遺書」として受け止め、撮影した写真の数々。過ぎ去った時代の記憶が刻み込まれ、言い知れぬ郷愁に誘われる。


【写真集】 遺された家―家族の記憶
全国で増え続ける「空き家」
子どもが巣立ち、親が亡くなり、住む「あるじ」を失った「空き家」ばかりを撮った写真集。そこには家族との思い出の品々が数々遺されています。
家族が残した様々な痕跡が昭和の香りと共に遠い記憶を呼び覚ます廃墟でもなく、廃屋でもない、遺された家。
山口、奈良、和歌山、京都、広島、大阪、三重にて撮影した主に家の内部の139ショットは圧巻です。

海風社刊
一般書 A4変形 並製 3,000円+税






海風社のホームページから

【写真集】 遺された家―家族の記憶

注文する書籍の紹介太田順一 文/写真
あとがき
 阪神大震災のあと、どれくらいたってのことだったか、孤独死がよく取りざたされた。丸裸になって身を寄せた仮設住宅で、あるいはその後移り住んだ公営の災害復興住宅で、ひとり暮らしの被災者が誰に看取られることもなくひっそりと息絶えていた―そんなことが年に何十件と起きたのだ。女性より男性の高齢者に多かったように記憶する。
 孤独死のニュースを見るたびに、不謹慎かもしれないが、私には写真を撮りたいという思いがつのった。亡くなった人の部屋のありようを、である。布団のうえに投げ捨てたパジャマ、流し台の洗いかけの茶碗や皿、壁に張ったカレンダーへの書き込み……。それらすべてが世間と孤絶したなかで逝った人の遺書のように思えたのだ。
 撮影できないかとあれこれ手だてを探ったが、実現するのはむつかしかった。そのときの思いが幾分かたちを変えて、今回の「空き家」を撮ることへとつながっている。
 もうひとつ、ハンセン病療養所での体験も記しておきたい。青森から沖縄の先の宮古島まで、全国に十三ある国立ハンセン病療養所を取材で二度回った。行く先々で激しい撮影拒否に遭ったが、私が得たいちばんの感想は何かというと、十人十色、いろんな人がいるなあという、ごく当たり前のことだった。
 ふるさとで暮らす肉親にわざわいが及ぶのを恐れ、入園者がマスコミに姿をあらわすことはまずない。いわば顔の見えない人たちであるわけだ。そんななか新聞などで語られる入園者の像は、ややもするとひとつの色で染めあげられパターン化されがちだった。
 療養所の居住棟はアパートと一緒で、どの部屋も決まった間取り、決まった造りの画一的なものだ。が、一歩なかに入ってみると、住んでいる人の個性や人柄が家財道具や装飾品に反映されていて、どれひとつとして同じ部屋はなかった。まさに百人百様の部屋なのだ。
 いろんな人がいるんだということを、人ではなく物を通してあらわそうと、私は部屋の内部の撮影に力を注いだ。その作業の延長線上で「空き家」めぐりは始まっている。
 撮影終了後、ふたつの「空き家」が売却されて人手に渡り、ひとつは借家であったため居住者の死去で家主に戻された。昔、家族が囲んだ食卓も椅子も、たんすのなかの衣服も、書架に並ぶ本も、リニューアルのため全部処分されてゴミとなる。辛うじて写真のなかに遠い日の記憶をとどめておけた―そう思いたい。
 盗っ人みたいに机の引き出しまでのぞく私の撮影を、こころよく許してくださったのは、次の方々です。こころよりお礼を申しあげます。

2016年10月31日月曜日

三池炭鉱閉山20年展のチラシ完成

三池炭鉱閉山20年展のチラシ完成

来年の5月から6月にかけて巡回展として開催する、
「炭鉱の記憶と関西 三池炭鉱閉山20年展」のチラシ第2版が完成しました。
 
デザインは展示会の実行委員である、向井美香さん。三池炭鉱の社宅近くで遊ぶ昭和30年代の子ども達のモノクロ写真が大きくデザインされています。

ポスターも現在作成中で、来月半ばにはお披露目の予定です。

このチラシを配布していただける方はぜひご連絡ください。

なお、この展示会は寄付によって開催します。みなさまには
いつもながらのご支援をいただいておりますが、そのうえさらに
おねだりするようで心苦しいのですが、ぜひ周囲の方がたにも
お声がけくださいますよう、お願い申し上げます。










展示会の趣旨や寄付のお願いなど、詳細は
http://shaunkyo.jp/miiketankouheizan20nenkansaiten.html

◆展示会の概要

・2017年5月5日~9日 10時~19時 エル・おおさか(大阪府立労働センター)9階ギャラリー
(主催:エル・ライブラリー、関西・炭鉱と記憶の会)

・2017年6月6日~30日(休館日あり)関西大学博物館
(主催:関西大学経済・政治研究所、エル・ライブラリー)

・いずれも入場無料

2016年10月30日日曜日

鶴見俊輔さんを囲む京都のサークル「家の会」の記録誌ができました。合評会報告から。

 「家の会」記録誌合評会

2016年10月30日@京都・下京区いきいき市民活動センター



哲学者、鶴見俊輔さんを囲む市民サークル「家の会」の記録誌ができ、合評会が行われました。

 その会の活動について「『限界学問』という開かれた場」だったという三室勇さんの批評が興味深く、ここに記しておきます。

家の会1961-1999」合評会2016.10.30

 「限界学問」という開かれた場

 完成した冊子の第一印象は、読み応えのある文章が詰まっていて、いい出来ではないかと思った。鶴見さん、北沢さんは何と言われるだろうか。

 編集世話人代表を引き受けていただいた今村浩太さんの「はじめに」は、簡潔で過不足のないよい紹介文である。同じ今村さんの書いた「家の会私記」に出てくる鶴見さんの「限界芸術、限界政治というのがあって限界学問というのがある。このサークルはそういう場」という言葉に、なるほどと私は納得した。

 鶴見さんの「限界芸術」という言葉は、「marginal art」がまず頭にあって、それを日本語にしたものではないか。日本語の「限界」には上限下限といった使い方があるように縁に広がりがないように感じる。marginal(辺縁)には日本家屋の濡れ縁のような外に向かっての広がりがあるように感じる。これは私の勝手な思い込みかも知れないが。学問として対象にならない生活に溶け込む領域を敢えて考える対象にする。家の会の報告には、そうした面白さがあったように思う。

 56ページから始まる鶴見さんの「変型家族について」のレジュメもそうした一例ではないか。戦後、正統家族となった核家族がもつ困難さに比して、変型家族には困難もあるが、可能性もあるといった見方は、示唆に富んでいる。

 笠原芳光さんのインタビューを読んでいて、笠原さんの話のあとにくる「ふふふ」という笑いで、一気に笠原さんの声と表情が浮かんでくる。そして私は和む。もう何年もお会いしていないが、まさに現前する。それが不思議だ。

「家の会」は鶴見さんが一つの柱だった。亡くなった鶴見さんへの思いはそれぞれが持っているはずだ。鶴見さんを語る文章が5本並んでいる。落合さんの『期待と回想』にふれた話に頷く自分がある。鶴見さんは1955年の雑誌『思想』に「ロバート・レッドフォード『小さなコミュニティー』」という紹介文を書いていた。

 これは当時「思想の科学」のグループが取り組んでいた「集団の伝記」「小社会の伝記」に役立つものとして、この文化人類学者の方法を捉えていたようだ。鶴見さんはその後、ずっとこの方法を繰り返し考え続けたように思う。そして後年になって、「期待の次元」「回想の次元」へと発展させたのではないか。

 そのように私は受け取った。それと鶴見さんの言葉についての考えが「すながの」に反映しているように感じた。鶴見さんの言葉についての考え方、これはすっと受け取りがたい難しさがある。その一部は真継伸彦の『鶴見俊輔著作集』(第五巻筑摩書房)の解説にでてくる。鶴見さんは独特の「ナンセンス詩」を書かれているが、その根にあるものに通じている。

 塚崎さんの書かれた「鶴見先生のまなざし」は、鶴見さんの怖い部分、というか、あまり人には見せない素の鶴見さんを描き出して、充分読み応えがあった。

 この冊子には、物故者5人の想い出が分担して書かれている。斎藤雷太郎さんを高橋さん、今村忠生さんを落合さん、八木康敞さんを那須さん、井上美奈子さんを北村さん、北沢恒彦さんを三室が書いている。この先立たれた方たちが実に変わっている、というか、変人すれすれ、いや変人なのかも、と思う。これは、私は「普通」という基準でだが。だから面白い。

 鶴見さんは「家の会を性格破綻者の集まり」と言ったとか、これは褒め言葉に違いない。変人は貴人に通じる。江戸期の伴蕎蹊の『近世畸人伝』、戦後の石川淳の『諸国畸人傳』と騎人を偏愛してきた私としては実に恵まれた環境にあったことを今更ながら喜んだ次第である。「家の会物故者畸人列伝」が後世に編まれるかもしれない。これぞ「限界学問」として残る仕事になるのではないか。ここは独り言である。

 この冊子が出来てきて、ページをめくって、冒頭の6葉に写真にまず釘付けになった。私は北沢さんについて書いた手前、北沢さんを写真の中に探した。右ページの上段の写真は、真ん中に立ち態度がでかい。その下の写真は左端に立ち、微笑んでいる。藤子不二雄の「忍者ハットリくん」顔である。

 左ページの上では、ちょっとムッツリ顔をされている。その下の写真になると後方から覗き込むような北沢さんの姿が写っている。これはたまたまかも知れないのだが、この位置取りの変化に北沢さんを感じた。

 この冊子の発案者、そして制作の実務を担ってくれた三人、今村さん、野口さん、那須さんには感謝したい。私が「家の会」に出席するようになった1984年頃とほぼ同時期に参加された方たちだと思う。それから30年は経つ。
東京から全く知り合いのない京都に来て、「家の会」に出会ったことに感謝している。
 (三室勇)



編集した今村浩太さんの「はじめに」を引用させていただきます。

はじめに
今村浩太

  家の会は、一九六一年から九九年まで四〇年近くにわたって京都で続けられてきたサークルである。
 始まりは、日米安保条約の強行採決に抗議して東京工大を辞職したのち、同志社大学に赴任していた鶴見俊輔さんを、北沢恒彦さんが研究室に訪ねたことだった。北沢さんは当時製パン店勤務、根底的な現実把握に基づく革命の条件を模索し、自分がその文章を愛読してきた鶴見さんの来京とともに、何かを始めたいという切実な想いがあった。鶴見さんは、観念的な飛躍によってはそのどうしようもなさを乗り越えることができない、家という場をめぐる話し合いの場を発案された。既成キリスト教団に対する急進的批判を繰り広げていた笠原芳光さんも発起人に加わった。

 会場は、当初同志社の鶴見研究室、鶴見さんの同志社辞職後は、主に京大楽友会館だった(最後の数年間は京大会館)。金曜の夜に月一回の例会。参加人数は少数のこともあったが、平均一〇~一五人くらいか。担当者による一時間程度の報告、そしてフリー・ディスカッションという形態が、大まかに守られた。普段の例会のほか、夏の合宿、冬の忘年会があった。柳谷俊さん、三舩温子さんののち、安森ソノ子さんが長く世話人を務められた。

 来るものは拒まず、去る者は追わずという流儀で、会員資格というものはなかったが、取り上げられる主題、会の雰囲気には、幾らかの変遷がみられる。その概要は、本誌巻末付録年表「増補版家の会の歩み」を参照されたい。

 他の様々な複数のサークル、集まりとの緩やかなつながりもこの会の特徴である。「人形の会」(『思想の科学』京都読者の会)、「リード・イン.四季」他と人的つながり、交流があった。また、会のメンバーの一部は、「京都べ平連」に重なっていた。全国サークル『山脈』とも連携が深い。一九九九年の解散後は、高橋幸子さん発行の『はなかみ通信』、鈴木金雪さん発行の『二流文学』が、その後の一部のメンバーをつないできた。

 全期間にわたってではないが、会報『家』が長く発刊され、九五年に特別号が編まれ、貴重な証言、記録を多く収めている。また『思想の科学』誌上には、例会の開催案内が毎月掲載されるだけでなく、編集や投稿に多くのメンバーが関わった。特に一九七三年一〇月の別冊『家』、一九八一年七月の臨時増刊号『家』は会の数名が編集を担当し、メンバーからの投稿が多く掲載されている。

 四〇年のあいだ、戦後の思想家としても異例と思われる精勤をこの会に向けられた鶴見さんは、その打ち込みを、著書『家の神』(淡交社)、論文「家のパラドクス」(シリーズ『変貌する家族3』岩波書店所収)をはじめとする果実に結びつけられた。

 二年ほど前に、野口良平さんより「会に余力があり、記憶が薄れないうちに冊子を編もう」という発議があり、今村が呼びかけ人を務めさせていただき、昨年一月ころから有志で編集会議を重ねて、このたびの発刊となった。

 編集の途上で、鶴見俊輔さんが永眠された。深く冥福を祈りたい。

二〇一六・五・三


2016年10月28日金曜日

(お送りいただいた本から)

菜園家族の思想

小貫 雅男 (著), 伊藤 恵子 (著)

 滋賀県彦根市に「里山研究庵」を開いておられる小貫雅男・大阪外国語大学名誉教授(モンゴル地域社会学)から。20年来、「菜園家族」の思想を問いかけておられ、その最新刊。

ワークシェアリングで自由時間を回復し、市場一辺倒でないライフスタイルめざす「菜園家族」こそ、21世紀に日本がめざすべき道だ。


内容(「BOOK」データベースより)

資本主義固有の不確実性と投機性が露わになった今、大地から引き離され、根なし草同然となった近代の人間の生存形態、賃金労働者を根源的に問い直す。強欲、冷酷無惨なグローバル市場に対峙し、近代を超克する抗市場免疫の新たな「菜園家族」を基礎に、素朴で、精神性豊かな自然世界への壮大な回帰と止揚の道を切り拓く。二一世紀、この基本方向をどう実現していくのか。本書はその具体的な道筋と手立てを提示する。

¥ 2,700
単行本: 384ページ
出版社: かもがわ出版 (2016/10/22)
言語: 日本語
ISBN-10: 4780308755
ISBN-13: 978-4780308754