2018年9月22日土曜日

「日高六郎を語る会」から

 「行動する知識人」と呼ばれた社会学者で、6月7日に101歳で亡くなった日高六郎さんについて「語る会」が9月22日午後1時から、京都市左京区の京都大楽友会館で開かれた。

 私は10代半ばから、雑誌「世界」やエーリッヒ・フロム「自由からの逃走」の翻訳を通して、かなり深い影響を受けてきた。東大闘争の際に、機動隊導入に抗議して東大教授を辞職されたことにも衝撃を受けた。

 新聞記者になり、社会部高槻駐在だったころ、たしか1983年ごろだっただろうか、高槻市の教育研究集会に来られ、懇親会で隣に座っていっしょに鍋をつついたこともある。地域の小さな集まりにも気軽に来られ、親しみやすい人だった。

 フランスから帰国され、京都に住まわれていた2007年2月、下鴨のマンションでインタビューする機会をもつこともできた。そのときの写真も手元にある。(池田知隆撮影)。行動する知識人というイメージというよりも、とても謙虚な人だった。

 シンポジウムには高齢者を中心に約80人が参加。そので主な発言を紹介しておこう。
◎記念講演から

 ●樋口陽一さん(憲法学者・東大名誉教授)
演題「『人形となっていない人間』をー日高さんの憲法論ー」
・根源的という意味でラジカルな民主主義者であり、自己に対する厳しいまなざしがあった。
・東アジアの思想家としての存在感。
・含羞の知識人であった。
・軍国主義から民主主義へと時代が流れていく中で、「生活保守主義」が広がっていった。そんな中で、自ら「感動」したことを語り、「人形」でなく、「人間」として生きようとした。その志を受け継ぎたい。

最首悟さん(東大助手として全共闘運動に参加し、水俣病の学術調査を担った
演題「学者ではないと言い張った日高さん、水俣そして市民について」
・1968~69年の東大闘争のとき、日高さんは周囲への配慮から東大を去った。当時、作家の高橋和巳は「(大学における)共犯的加害者の苦しみ」や「自己を維持する苦しみ」を語り、その後、断腸の思いを抱きながら、亡くなった。その際、日高さんは「烈風を引き受けるといい、その本質的なものを引き受けていきたいと宣言していた。苦しみを引き受ける人であった。
・「日高さんが自分が学者ではない、といったのは、定型としての学者をはみ出したという意味だ。学問という型を壊し、人格に関わる営みとして学問を考えていた。また、自由な「遊民」として規定していたのではないか。

◎シンポジウムから「日高六郎から未来へと引き継げるもの」

(省略=後に余裕ができれば、みなさんの発言内容を加筆します)


(参考)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(毎日新聞の訃報記事から)
日高六郎さん 101歳=社会学者 市民運動リード

 戦後の平和と民主主義運動の論客で、国民文化会議の代表として安保闘争やベトナム反戦、水俣病闘争など幅広い分野で市民運動をリードした社会学者の元東大教授、日高六郎(ひだか・ろくろう)さんが7日未明、入居していた京都市左京区の有料老人ホームで老衰のため亡くなった。101歳。本人の遺志で、妻暢子(のぶこ)さんら近親者だけで7日夕に密葬を営む。

 中国・青島市生まれ。1941年東大文学部社会学科卒。東大助手、海軍技術研究所嘱託を経て49年に東大新聞研究所助教授、60年教授。東大紛争を契機に69年退官、その後評論家活動を展開し、76~89年京都精華大教授を務めた。 

 著書に81年の毎日出版文化賞を受けた「戦後思想を考える」(岩波書店)をはじめ「現代イデオロギー」「日高六郎教育論集」など。訳書にE・フロム「自由からの逃走」がある。 
 「現代における人間の解放とは何か」を学問・実践の場で考える立場から、55年に創立された国民文化会議の代表として積極的に発言。60年の安保闘争では市民運動の旗手の一人として先頭に立ち、ベトナム戦争や水俣病などの公害問題などでも平和活動家の観点から実践的評論活動を展開した。 

 東大紛争の時「私が旗を振る時代は終わった」と苦悩の中で大学を去ったが、元社会党委員長の故飛鳥田一雄氏らと住民運動を対象にした総合雑誌「市民」を発行(その後廃刊)するなど、幅広い活動が共感を呼んだ。 
 87年には京都市の市民グループが起こした「君が代」斉唱の法的拘束力を問う訴訟に原告として参加。88年に野間宏氏らと共にフロンガスの規制強化を求める要望書を当時の竹下登首相に出したり、90年衆院選では「三〇〇億円金権選挙を憂える三〇〇人委員会」の発起人として金権選挙の監視を呼び掛けたりするなど活動は多岐にわたった。 
 89年にはエッセイストの暢子さんとパリ郊外へ移住したが、度々帰国し、発言を続けた。 

 2001年3月の国民文化会議解散に際しては「主要メンバーも高齢化し、新しい運動は若い世代によって行われるほかないと考えた」と述べた。しかし、その後も活動の意欲は衰えず、05年、ドキュメンタリー「映画日本国憲法」への出演と「戦争のなかで考えたこと」の刊行を機に一時帰国した際に「戦争と共に生きた世代は間もなくいなくなる」と憂えた。06年から体調が優れず京都に戻っていた。 

 30年来の知人男性が今年1月に面会した際にはベッドから起き上がって幼少期の中国での思い出を懐かしそうに語った。最近は寝たきりの状態だったが、今月1日にも短くあいさつを交わしたという。
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2018年9月21日金曜日

(いただいた本から)今村欣史著「触媒のうたー宮崎修二朗翁の文学史秘話」

今村欣史著「触媒のうたー宮崎修二朗翁の文学史秘話」

 神戸新聞の記者として兵庫県の文学界を中心に活躍されてこられた宮崎修二朗氏の貴重な証言を記録した文学談義を収めている。昭和33年に「のじぎく文庫」という異色の地域密着型の出版機関を立ち上げたほか、民俗学者・柳田国男氏の自叙伝を口述筆記されたり、足立巻一氏や田辺聖子氏など多くの文人と交流を持ってこられた宮崎翁は、文人と文人、文人と社会、文人と読者との間をつなぎ、そこに幾多の化学反応を起こした「触媒」だった。
 そんな宮崎翁と出会った今村氏は宮崎翁の言葉を「うた」として記録し、表現している。宮崎翁の人間的な魅力に惹かれた文人達たちの秘話の数々。今村氏は熱い思いで受け止め、文学史の貴重な記録として歴史に刻んでいる。心温まる書である。

神戸新聞総合出版センター刊
定価 1800円+税

2018年8月13日月曜日

(いただいた本から)「大阪万博が日本の都市を変えた」吉村元男著

「大阪万博が日本の都市を変えた:工業文明の功罪と「輝く森」の誕生 」
吉村元男 (著)

内容紹介
1970年、歴史が動く瞬間——
万博開催後、緑の再生をめざした意義を歴史の中に位置づけ、捉えなおす試み。

1970年、大阪万博。その開催のために切り開かれ、更地となった会場の跡地が森に生まれ変わるという奇跡は、いかにして可能になったのか。本書は、万国博覧会や都市における公園の歩みを通じて、今までの日本と世界の歴史を振り返り、これからの文明の姿を模索するものである。
持続可能な生物多様性社会に向けた公園・都市・文明のあり方を、大阪万博および万博公園の計画に携わった環境プランナーである著者が、これまでの総括とともに提言する。

[主な目次]
まえがき——大阪万博から万博の森へ
第I部 大阪万博以前
第1章 日本は、万国博覧会とどうかかわったのか
第2章 内国博覧会から始まった万国博覧会
第3章 幻に終わった戦前の万国博覧会
第4章 アジア初の万国博覧会——大阪万博開催
第5章 万博会場の設計思想
第II部 大阪万博以後
第6章 「人と自然の新しい関係の再建」をめざした都市公園への転換
第7章 国立民族学博物館の誕生
第8章 太陽の塔は、残った
第9章 地球環境時代の新種の公園
第10章 巨大都市の功罪
第11章 2070年の万博公園の未来に向けて
参考文献
あとがき——都市の中に、森をつくるということ

2018年8月10日金曜日

(いただいた本から)炭鉱町に咲いた原貢野球ー三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡

炭鉱町に咲いた原貢野球ー三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡
澤宮優著、集英社文庫

 私が高専2年生の夏。大牟田の町が喜びに湧き上がった光景を覚えている。地方の公立学校に通う地元の高校生たちによる優勝は、久しく見ることはなくなった。
筆者の澤宮さんは熊本県出身で約20年前からの友人で、たくさんのノンフィクション作品を執筆している。
  これを読んで、阪神の眞弓明信選手も大牟田出身だったことを知りました。

本の紹介文から
三池工業高校野球部監督・原貢氏。球界のエース菅野智之投手の祖父であり、元WBC日本代表監督の原辰徳氏の父である。1965年、伝説の甲子園初出場、初優勝に迫るノンフィクション。(解説/江刺昭子)


内容(「BOOK」データベースより)
1965年、夏の甲子園。炭鉱町・大牟田の三池工業高校が、初出場・初優勝を成し遂げた。栄光へと導いた監督は、原貢。巨人軍の四番打者を務めた原辰徳の父で、球界のエース菅野智之の祖父にあたる。その快挙は、三池闘争や粉塵爆発事故に打ちひしがれていた町を大きく熱狂させた。語り継がれる厳しい指導法や、当時の常識を覆す戦術、今も色褪せないドラマを緻密な取材で追ったノンフィクション。

2018年7月22日日曜日

(いただいた本から)『原爆の世紀を生きて ―爆心地(グラウンド・ゼロ)からの出発―』( 米澤鐡志 著)

(いただいた本から)『原爆の世紀を生きて―爆心地(グラウンド・ゼロ)からの出発―』米澤鐡志 著 224頁   定価 本体1400円+税

2018年8月6日発行


本の帯には
「核なき世界への直言!
グラウンド・ゼロの手前750メートルで
被爆した少年が生き抜いた、
激動の戦後社会史。
リベラル市民運動家の、父子相克の自伝。」

とあります。
満員電車のなかで被爆するという体験をもとに、平和への願いを込めて一筋の道をあるいてきた人の誠実な記録です。

【本書の構成】
Ⅰ 戦争中の生活と原子爆弾
Ⅱ 戦後の広島の街で
Ⅲ 峠三吉をめぐって
Ⅳ 京都に移住―学生運動に没頭
Ⅴ 医療の現場で
Ⅵ 父・米澤進のこと
Ⅶ 平和を求めて
Ⅷ 3・11以後―「老後」を反戦平和にかける

<報告>医療汚職の伏魔殿、厚生省
―官・産・医の癒着が生み出す薬害―

米澤鐡志(よねざわ・てつし)

1934年広島生まれ。11歳のとき、爆心から750メートルの満員電車内で被爆。
奇跡的に助かり、中学生のころから反核運動・反戦平和運動に参加。
55年第1回原水爆禁止世界大会に参加。以降毎年参加している。
58年立命館大学に入学、安保闘争を指導。
85年宇治平和の会設立に参加。
60年安保のころから小中学校をはじめ各地で被爆体験講話を行っている。
現在、京都府宇治市在住。

発行所は
アジェンダ・プロジェクト
〒601-8022
京都市南区東九条北松ノ木町37-7
℡&Fax 075-822-5035
E-mail agenda@tc4.so-net.ne.jp
URL http://www3.to/agenda/
FB https://www.facebook.com/agenda.project

2018年6月21日木曜日

三井三池出身で、大牟田・荒尾の風景を描き続けた江上茂雄さんの絵を紹介したブログがありました。


江上茂雄さんの絵を紹介したブログです。

http://egamishigeoten.blogspot.com/2013/10/5-roadsiders-weekly-20131002vol.html
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これまでたくさんの取材を通して、たくさんのお年寄りと出会ってきた。ものすごいお金持ちもいれば、ものすごい貧乏人もいた。見るからにハッピーなひとも、哀しいひともいた。そうして思い至ったのは、前にも書いたかもしれないが、人生の「勝ち組」と「負け組」というのはけっきょく、財産でも名声でもなんでもない、死ぬ5秒前に「あ~、おもしろかった」と言えるかどうかだという、単純な真実だった。どんなにカネや部下や大家族や奴隷に囲まれても、「ほんとは音楽やりたかったのに」とか「絵を描いてたかった」とか、最後の瞬間に頭に浮かんでしまったら、それは「負けの人生」だ。

僕らはいつも美術館に、「いい作品」を見に行く。でも今回は、そうでなくてもいい。そこにあるのは、もちろんいい作品でもあるけれど、それ以上に静かに輝く「いい人生」なのだから