2018年10月26日金曜日

(いただいた本から)写真集「ひがた記」(太田順一著)

(いただいた本から)写真集「ひがた記」(太田順一著、海風社)

 大学時代の級友だった写真家、太田順一さんから送られてきた。1969年、早稲田のキャンバスで出会ったが、その後、彼は中退して写真家になっていた。それを知ったのは1980年ごろ、大阪の警察署でのある夜のことだった。私は新聞記者になり、彼はカメラマンとして再会したのだった。
 これまでも写真集も素晴らしいものだが、最近の写真からは人物が消えている。この写真集は、干潟のさまざまな表情を撮影したものだが、写真の力に驚嘆させらた。私は、少年時代を有明海の干潟で遊びながら育っただけに、写真の一つひとつに胸に迫るものがある。
 本の帯で、宗教学者の山折哲雄さんはこう書いている。
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ひがたは笑い ひがたは怒り ひがたは沈黙する
北斎は、波の切っ先まで描いたが、この写真集に登場する「ひがた」は、その奥の大地のドラマに迫ろうとしている。
泥と砂の交替、逆巻く波の底から湧き上る原始の地図、ときに小鳥や小魚たちが記号のように群れ舞い、「ひがた」の紋様と傷をいろどる。
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〇出版社の「内容紹介」から
関西国際空港にほど近い岸和田市の沖合につくられた実験調査用の干潟。 石で築いた堤のなかに土砂を流し込んだもので、小学校の運動場ぐらいの広さしかない。 いわば、人工物の干潟に二年間通いつめて撮影された写真の数は数千点にものぼる。 そのうちの120点が驚くほど様々な表情を見せている。 撮影に通いながら心に浮かんだエッセイ12篇も秀逸。

〇出版社の立ち読み案内から

小さな世界

 大学生だったころ、メッセージ性の強いジャン=リュック・ゴダールの映画を随分と見た。私だけでなく映画好きの若者の多くがそうであったように思う。一九七〇年前後という政治が突出した時代ならではだったのだろう。
 今の私なら、あんな観念的で退屈な映画など見ようとは思わない(ジーン・セバーグが初々しい「勝手にしやがれ」だけは別だけど)。でも当時の私は、各シーン各カットが意味するものは何なのかと、それこそ観念的に必死で考えながらスクリーンと向き合っていた。
 今でもそらんじているゴダールの言葉がある。何とも勇ましいアジテーションだが。
 「ブルジョワジーは自らの姿に似せて世界(イメージ)をつくる。同志諸君、我々はそのイメージを解体しなければならない」
 写真も社会の意識(イメージ)を形成するのに大きな役割を果たすメディアだ。しかし私は長年、ドキュメンタリーの分野で仕事をしてきたが、写真を「解体」のために使おうなんて考えたことは一度もない。写真は何かのための道具なんかではなく、それ自体が豊かで底の深いものだからだ。声高なものには、たとえそれが真実を語っているとしても、決して与(くみ)しまいと私は思い定めている。
 干潟で私が写しとめているのは生きものたちの小さな世界だ。人間界の逼迫した諸問題からは遠く離れているようにも見える。でも時々、こう感じたりする。本当はこの干潟のほうがとてつもなく大きな世界であって、私も人間界もちっぽけなものだ、と。

(3000円+税)

(いただいた本から)「ヤマケンのどないなっとんねんーアベ・ポピュリズムへの大阪戯画的政治批判」(山本健治著)

(いただいた本から)「ヤマケンのどないなっとんねんーアベ・ポピュリズムへの大阪戯画的政治批判」(山本健治著、第三書館)

 テレビのコメンテーター、フリーライターとして活躍している山本健治さんからいただきました。山本さんとは、新聞社の高槻駐在だった1980年代初めに知り合い、当時山本さんは高槻市議だった。自転車で市内を駆けまわり、軽妙に政治批判を続けていたが、その姿勢は大阪府会議員を経て、30数年たった今日になっても変わらない。
 大阪のミニコミ月刊誌「うずみ火」に連載したものが100回を数えたのを区切りにまとめたものだ。2010年4月から2018年7月までの9年間、、民主党をめぐる政権交代、橋下徹・大阪市長の大阪都構想、安倍政権による改憲の動きなど時代がどのように動いてきたのがよくわかる。
 
(2018年10月刊、1000円+税)

2018年9月22日土曜日

「日高六郎を語る会」から

 「行動する知識人」と呼ばれた社会学者で、6月7日に101歳で亡くなった日高六郎さんについて「語る会」が9月22日午後1時から、京都市左京区の京都大楽友会館で開かれた。

 私は10代半ばから、雑誌「世界」やエーリッヒ・フロム「自由からの逃走」の翻訳を通して、かなり深い影響を受けてきた。東大闘争の際に、機動隊導入に抗議して東大教授を辞職されたことにも衝撃を受けた。

 新聞記者になり、社会部高槻駐在だったころ、たしか1983年ごろだっただろうか、高槻市の教育研究集会に来られ、懇親会で隣に座っていっしょに鍋をつついたこともある。地域の小さな集まりにも気軽に来られ、親しみやすい人だった。

 フランスから帰国され、京都に住まわれていた2007年2月、下鴨のマンションでインタビューする機会をもつこともできた。そのときの写真も手元にある。(池田知隆撮影)。行動する知識人というイメージというよりも、とても謙虚な人だった。

 シンポジウムには高齢者を中心に約80人が参加。そので主な発言を紹介しておこう。
◎記念講演から

 ●樋口陽一さん(憲法学者・東大名誉教授)
演題「『人形となっていない人間』をー日高さんの憲法論ー」
・根源的という意味でラジカルな民主主義者であり、自己に対する厳しいまなざしがあった。
・東アジアの思想家としての存在感。
・含羞の知識人であった。
・軍国主義から民主主義へと時代が流れていく中で、「生活保守主義」が広がっていった。そんな中で、自ら「感動」したことを語り、「人形」でなく、「人間」として生きようとした。その志を受け継ぎたい。

最首悟さん(東大助手として全共闘運動に参加し、水俣病の学術調査を担った
演題「学者ではないと言い張った日高さん、水俣そして市民について」
・1968~69年の東大闘争のとき、日高さんは周囲への配慮から東大を去った。当時、作家の高橋和巳は「(大学における)共犯的加害者の苦しみ」や「自己を維持する苦しみ」を語り、その後、断腸の思いを抱きながら、亡くなった。その際、日高さんは「烈風を引き受けるといい、その本質的なものを引き受けていきたいと宣言していた。苦しみを引き受ける人であった。
・「日高さんが自分が学者ではない、といったのは、定型としての学者をはみ出したという意味だ。学問という型を壊し、人格に関わる営みとして学問を考えていた。また、自由な「遊民」として規定していたのではないか。

◎シンポジウムから「日高六郎から未来へと引き継げるもの」

(省略=後に余裕ができれば、みなさんの発言内容を加筆します)


(参考)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(毎日新聞の訃報記事から)
日高六郎さん 101歳=社会学者 市民運動リード

 戦後の平和と民主主義運動の論客で、国民文化会議の代表として安保闘争やベトナム反戦、水俣病闘争など幅広い分野で市民運動をリードした社会学者の元東大教授、日高六郎(ひだか・ろくろう)さんが7日未明、入居していた京都市左京区の有料老人ホームで老衰のため亡くなった。101歳。本人の遺志で、妻暢子(のぶこ)さんら近親者だけで7日夕に密葬を営む。

 中国・青島市生まれ。1941年東大文学部社会学科卒。東大助手、海軍技術研究所嘱託を経て49年に東大新聞研究所助教授、60年教授。東大紛争を契機に69年退官、その後評論家活動を展開し、76~89年京都精華大教授を務めた。 

 著書に81年の毎日出版文化賞を受けた「戦後思想を考える」(岩波書店)をはじめ「現代イデオロギー」「日高六郎教育論集」など。訳書にE・フロム「自由からの逃走」がある。 
 「現代における人間の解放とは何か」を学問・実践の場で考える立場から、55年に創立された国民文化会議の代表として積極的に発言。60年の安保闘争では市民運動の旗手の一人として先頭に立ち、ベトナム戦争や水俣病などの公害問題などでも平和活動家の観点から実践的評論活動を展開した。 

 東大紛争の時「私が旗を振る時代は終わった」と苦悩の中で大学を去ったが、元社会党委員長の故飛鳥田一雄氏らと住民運動を対象にした総合雑誌「市民」を発行(その後廃刊)するなど、幅広い活動が共感を呼んだ。 
 87年には京都市の市民グループが起こした「君が代」斉唱の法的拘束力を問う訴訟に原告として参加。88年に野間宏氏らと共にフロンガスの規制強化を求める要望書を当時の竹下登首相に出したり、90年衆院選では「三〇〇億円金権選挙を憂える三〇〇人委員会」の発起人として金権選挙の監視を呼び掛けたりするなど活動は多岐にわたった。 
 89年にはエッセイストの暢子さんとパリ郊外へ移住したが、度々帰国し、発言を続けた。 

 2001年3月の国民文化会議解散に際しては「主要メンバーも高齢化し、新しい運動は若い世代によって行われるほかないと考えた」と述べた。しかし、その後も活動の意欲は衰えず、05年、ドキュメンタリー「映画日本国憲法」への出演と「戦争のなかで考えたこと」の刊行を機に一時帰国した際に「戦争と共に生きた世代は間もなくいなくなる」と憂えた。06年から体調が優れず京都に戻っていた。 

 30年来の知人男性が今年1月に面会した際にはベッドから起き上がって幼少期の中国での思い出を懐かしそうに語った。最近は寝たきりの状態だったが、今月1日にも短くあいさつを交わしたという。
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2018年9月21日金曜日

(いただいた本から)今村欣史著「触媒のうたー宮崎修二朗翁の文学史秘話」

今村欣史著「触媒のうたー宮崎修二朗翁の文学史秘話」

 神戸新聞の記者として兵庫県の文学界を中心に活躍されてこられた宮崎修二朗氏の貴重な証言を記録した文学談義を収めている。昭和33年に「のじぎく文庫」という異色の地域密着型の出版機関を立ち上げたほか、民俗学者・柳田国男氏の自叙伝を口述筆記されたり、足立巻一氏や田辺聖子氏など多くの文人と交流を持ってこられた宮崎翁は、文人と文人、文人と社会、文人と読者との間をつなぎ、そこに幾多の化学反応を起こした「触媒」だった。
 そんな宮崎翁と出会った今村氏は宮崎翁の言葉を「うた」として記録し、表現している。宮崎翁の人間的な魅力に惹かれた文人達たちの秘話の数々。今村氏は熱い思いで受け止め、文学史の貴重な記録として歴史に刻んでいる。心温まる書である。

神戸新聞総合出版センター刊
定価 1800円+税

2018年8月13日月曜日

(いただいた本から)「大阪万博が日本の都市を変えた」吉村元男著

「大阪万博が日本の都市を変えた:工業文明の功罪と「輝く森」の誕生 」
吉村元男 (著)

内容紹介
1970年、歴史が動く瞬間——
万博開催後、緑の再生をめざした意義を歴史の中に位置づけ、捉えなおす試み。

1970年、大阪万博。その開催のために切り開かれ、更地となった会場の跡地が森に生まれ変わるという奇跡は、いかにして可能になったのか。本書は、万国博覧会や都市における公園の歩みを通じて、今までの日本と世界の歴史を振り返り、これからの文明の姿を模索するものである。
持続可能な生物多様性社会に向けた公園・都市・文明のあり方を、大阪万博および万博公園の計画に携わった環境プランナーである著者が、これまでの総括とともに提言する。

[主な目次]
まえがき——大阪万博から万博の森へ
第I部 大阪万博以前
第1章 日本は、万国博覧会とどうかかわったのか
第2章 内国博覧会から始まった万国博覧会
第3章 幻に終わった戦前の万国博覧会
第4章 アジア初の万国博覧会——大阪万博開催
第5章 万博会場の設計思想
第II部 大阪万博以後
第6章 「人と自然の新しい関係の再建」をめざした都市公園への転換
第7章 国立民族学博物館の誕生
第8章 太陽の塔は、残った
第9章 地球環境時代の新種の公園
第10章 巨大都市の功罪
第11章 2070年の万博公園の未来に向けて
参考文献
あとがき——都市の中に、森をつくるということ

2018年8月10日金曜日

(いただいた本から)炭鉱町に咲いた原貢野球ー三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡

炭鉱町に咲いた原貢野球ー三池工業高校・甲子園優勝までの軌跡
澤宮優著、集英社文庫

 私が高専2年生の夏。大牟田の町が喜びに湧き上がった光景を覚えている。地方の公立学校に通う地元の高校生たちによる優勝は、久しく見ることはなくなった。
筆者の澤宮さんは熊本県出身で約20年前からの友人で、たくさんのノンフィクション作品を執筆している。
  これを読んで、阪神の眞弓明信選手も大牟田出身だったことを知りました。

本の紹介文から
三池工業高校野球部監督・原貢氏。球界のエース菅野智之投手の祖父であり、元WBC日本代表監督の原辰徳氏の父である。1965年、伝説の甲子園初出場、初優勝に迫るノンフィクション。(解説/江刺昭子)


内容(「BOOK」データベースより)
1965年、夏の甲子園。炭鉱町・大牟田の三池工業高校が、初出場・初優勝を成し遂げた。栄光へと導いた監督は、原貢。巨人軍の四番打者を務めた原辰徳の父で、球界のエース菅野智之の祖父にあたる。その快挙は、三池闘争や粉塵爆発事故に打ちひしがれていた町を大きく熱狂させた。語り継がれる厳しい指導法や、当時の常識を覆す戦術、今も色褪せないドラマを緻密な取材で追ったノンフィクション。

2018年7月22日日曜日

(いただいた本から)『原爆の世紀を生きて ―爆心地(グラウンド・ゼロ)からの出発―』( 米澤鐡志 著)

(いただいた本から)『原爆の世紀を生きて―爆心地(グラウンド・ゼロ)からの出発―』米澤鐡志 著 224頁   定価 本体1400円+税

2018年8月6日発行


本の帯には
「核なき世界への直言!
グラウンド・ゼロの手前750メートルで
被爆した少年が生き抜いた、
激動の戦後社会史。
リベラル市民運動家の、父子相克の自伝。」

とあります。
満員電車のなかで被爆するという体験をもとに、平和への願いを込めて一筋の道をあるいてきた人の誠実な記録です。

【本書の構成】
Ⅰ 戦争中の生活と原子爆弾
Ⅱ 戦後の広島の街で
Ⅲ 峠三吉をめぐって
Ⅳ 京都に移住―学生運動に没頭
Ⅴ 医療の現場で
Ⅵ 父・米澤進のこと
Ⅶ 平和を求めて
Ⅷ 3・11以後―「老後」を反戦平和にかける

<報告>医療汚職の伏魔殿、厚生省
―官・産・医の癒着が生み出す薬害―

米澤鐡志(よねざわ・てつし)

1934年広島生まれ。11歳のとき、爆心から750メートルの満員電車内で被爆。
奇跡的に助かり、中学生のころから反核運動・反戦平和運動に参加。
55年第1回原水爆禁止世界大会に参加。以降毎年参加している。
58年立命館大学に入学、安保闘争を指導。
85年宇治平和の会設立に参加。
60年安保のころから小中学校をはじめ各地で被爆体験講話を行っている。
現在、京都府宇治市在住。

発行所は
アジェンダ・プロジェクト
〒601-8022
京都市南区東九条北松ノ木町37-7
℡&Fax 075-822-5035
E-mail agenda@tc4.so-net.ne.jp
URL http://www3.to/agenda/
FB https://www.facebook.com/agenda.project

2018年6月21日木曜日

三井三池出身で、大牟田・荒尾の風景を描き続けた江上茂雄さんの絵を紹介したブログがありました。


江上茂雄さんの絵を紹介したブログです。

http://egamishigeoten.blogspot.com/2013/10/5-roadsiders-weekly-20131002vol.html
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これまでたくさんの取材を通して、たくさんのお年寄りと出会ってきた。ものすごいお金持ちもいれば、ものすごい貧乏人もいた。見るからにハッピーなひとも、哀しいひともいた。そうして思い至ったのは、前にも書いたかもしれないが、人生の「勝ち組」と「負け組」というのはけっきょく、財産でも名声でもなんでもない、死ぬ5秒前に「あ~、おもしろかった」と言えるかどうかだという、単純な真実だった。どんなにカネや部下や大家族や奴隷に囲まれても、「ほんとは音楽やりたかったのに」とか「絵を描いてたかった」とか、最後の瞬間に頭に浮かんでしまったら、それは「負けの人生」だ。

僕らはいつも美術館に、「いい作品」を見に行く。でも今回は、そうでなくてもいい。そこにあるのは、もちろんいい作品でもあるけれど、それ以上に静かに輝く「いい人生」なのだから

2018年6月14日木曜日

三井三池出身の画家、江上茂雄さんの展覧会「江上茂雄風景日記」(5月26日から7月8日、武蔵野市立吉祥寺美術館)のご案内

三井三池出身の画家、江上茂雄さんの展覧会「江上茂雄風景日記」(5月26日から7月8日、武蔵野市吉祥寺美術館)のご案内

 知人から江上さんの展覧会の案内パンフと招待券が送られてきた。
私の郷土の荒尾にこのような画家がおられるとは知らなかった。どうして東京・吉祥寺なのだろうか。
 三池炭鉱でにぎわった大牟田・荒尾地区には、ユニークな人たちがたくさん暮らしていた、と改めて思い知らされた。

パンフの紹介によると
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  1912(明治45)年に福岡県山門郡瀬高町(現在の福岡県みやま市)に生まれた江上茂雄は、幼い頃から突出した絵画技量を発揮しながらも、12歳になる年に父を亡くすという家庭環境のもと専門教育課程への進学は望まれず、高等小学校卒業後15歳で三井三池鉱業所建築設計課に就職する。
 以後、会社勤めの収入により母・妻と4人の子の生活を支えるかたわら、「画家として生きる」という少年時代の決意を貫き、独学でクレパスークレヨンによる表現を極めていく。
 1972(昭和47)年の定年退職後は、それまで暮らした大牟田から隣接する熊本県・荒尾に転居し、度重なる眼病や脳血栓を克服後、1979(昭和54)年から2009(平成21)年頃までの約30年もの間、正月と台風の日を除く毎日、水彩画の道具を担ぎ徒歩で自宅を出発し、その日の制作地を探し当て、1日1枚、戸外で写生による風景画を仕上げるという生活を続けた。
 そして、2014(平成26)年2月、2万点以上に及ぶ絵を荒尾の自宅に残し、101歳でその生涯を閉じた。
 遠く離れた場所で芽吹く美術の最新動向を常に意識しながらも、自分が生まれた土地を離れることなく、誰に教えを乞うこともせずに、制作者としての己と向き合い続けた江上茂雄。約400点の作品により都内で初めてこの大を紹介する本展では、とりわけ、江上が青年期から描き続けた大牟田周辺、そして定年後に毎日描いた荒尾の《風景画》に焦点を当てている。
 それらは、日々、そばに寄り添う自然と対話し続けた江上の足あとをたどるものであり、土地の人々が「路傍の画家」・江上茂雄を目撃した場と時の記録であり、さらには、絵の前に立つ誰かが、自らの過去の記憶に触れずにはいられなくなる風景でもある。
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2018年5月1日火曜日

(いただいた本から)「『君たちはどう生きるか』に異議あり!」

(いただいた本から)
「『君たちはどう生きるか』に異議あり!」(村瀬学著)



副題に、「人間分子論」について議論しましょう、とある。200万部を超えるベストセラーになっている「吉野源三郎『君たちはどう生きるか』」には、「上から見る目」があり、生き方のお手本にはならない、とあえて異議を唱えている。進歩に寄与しない人間を低くみる見方に誘導する人間観になるというのだ。それと違って「大地に生きる」生き方を示し、また「いじめ」に対する問題のとらえかたも提案している。

 ああ、本はこのように読みながら、考えることができるのだ、と刺激を与えてくれる。

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著者 村瀬 学

発売日 2018年 04月

本体価格 1300円

ISBN 978-4-86565-120-1

判型 四六判・並製


リード文 問題提起の書。本書によって、ベストセラーをもっと有効に活用しましょう。感動の古典的名作といわれ、漫画とあわせて大ベストセラーになっている吉野源三郎『君たちはどう生きるか』ですが、この本が生き方の模範のようにされていることに異論があります。


解説・目次 問題提起の書


本書によって、ベストセラーをもっと有効に活用しましょう。

感動の古典的名作といわれ、漫画とあわせて大ベストセラーになっている吉野源三郎『君たちはどう生きるか』ですが、この本が生き方の模範のようにされていることに異論があります。以下の重要な問題が見逃されていると考えるからです。


★人間観…作品の冒頭、コペル君が発見し、おじさんが科学的なものの見方として称揚する「人間分子観」は、この本の根本的なものの見方になっています。しかし、このものの見方の偏重は、進歩に寄与しない人間を排除し、人間ひとりひとりを尊重しない人間観となります。これを作品にそって具体的にみていきます。もちろん対論を提示します。


★すり替え…「貧困」や「格差」は「労働者」の問題に、「共同の意志」と「個人」の問題が「個人」と「個人」の友情の問題にすり替えられています。こうしたすり替えは作品のいたるところに存在します。


★英雄礼賛…文庫版解説の丸山真男氏もさじを投げ、漫画版では削除された「ナポレオン礼賛」の章。上記の人間観が英雄礼賛に結びつくのは必定です。コペル君・おじさんの発想の危うさが際立っています。


★解決法…事件の解決は、「力」にうったえる方法によっています。本当の解決とはいえません。本書の「いじめ」に対する考え方を明確に示します。


著者プロフィール 1949年京都府生まれ。現在、同志社女子大学特任教授。

著書『初期心的現象の世界』『「いのち」論のはじまり』『「あなた」の哲学』『自閉症』『次の時代のための吉本隆明』『徹底検証 古事記』『古事記の根源へ』ほか、多数

2018年2月20日火曜日

(いただいた本から)「菜園家族レボリューション 日本国憲法、究極の具現化 」 小貫雅男 (著),‎ 伊藤恵子 (著)

(いただいた本から)菜園家族レボリューション 日本国憲法、究極の具現化 
小貫雅男 (著),‎ 伊藤恵子 (著)

 琵琶湖畔鈴鹿山中で里山研究庵Nomadで「菜園家族」構想を提唱しておられる小貫雅男さん、伊藤恵子さんから送られてきました。小貫さんはモンゴルの地域文化研究をもとに独自の地域未来論を展開しておられます。

「冷酷なグローバル市場に対峙し抗市場免疫の「菜園家族」を基礎に素朴で精神性豊かな自然世界への壮大な回帰と止揚の道を切り拓く」

内容紹介
第一章 何と愚かな狂気の沙汰、あの忌まわしい戦争をまた繰返すのか
  —— 欲深い権力者の駆け引きではなく、民衆の英知の結集が未来を拓く ——

第二章 近代を超克する新たな時代のステージへ
  —— 日本国憲法の小国主義の土台を築く「菜園家族」 ——

第三章 「菜園家族」を土台に築く円熟した先進福祉大国
  —— 近代を超克する新たな社会保障制度を探る ——

第四章 二一世紀こそ草の根の変革主体の構築を
  —— 本物の民主主義の復権と地域再生 ——

第五章 「菜園家族」的平和主義の構築
  —— いのちの思想を現実の世界へ ——

第六章 じり貧への危惧を払拭し、草の根の高次創造の世界へ
  —— 「菜園家族」の台頭と資本の自然遡行的分散過程 ——

第七章 今こそ近代のパラダイムを転換する
  —— 生命本位史観に立脚した二一世紀未来社会論 ——

単行本: 158ページ
¥ 1,200+税
出版社: 本の泉社 (2018/2/12)
言語: 日本語
ISBN-10: 4780716713
ISBN-13: 978-4780716719
発売日: 2018/2/12

2018年1月24日水曜日

(いただいた本から)西原大輔著「本詩取り」(七月堂)

(いただいた本から)西原大輔著「本詩取り」(七月堂)


広島大学教授の西原さんから素敵な本が送られてきた。いつもながら、装丁がおしゃれな小型本です。(10数年前、日文研の共同研究の勉強会で、ご一緒して以来、本をお送りいただき、ありがとうございます)

「本歌取り」ならぬ「本詩取り」とは西原さんの造語です。すべて短い詩が「本詩取り」の手法で作られ、収められています。西原さんは

 「人間が感じ考えることは、古典文学に表現されつくされています。僕ができるのは、過去の人類の文学遺産を遥かに仰ぎ見て、これに新しい言い方を加えるだけです。これこそすなわち、僕が『本詩取り』を試みる所以です。古きを温め新しさを知る、と言い替えても良いでしょう」

 といっています。
 序詞、「詩集を読んで下さる方へ」として

  詩か詩でないかはわかりません
  わずかな文字の連なりです
  あなたが読んでくだされば
  心が活字を詩に変える

 と書かれてありました。
 七月堂刊
 2000円+税
 



2018年1月22日月曜日

(いただいた本から)山本義隆著「近代日本一五〇年」(岩波新書)

(いただいた本から)
山崎博昭プロジェクトを通して知り合った山本義隆さんから新著「近代日本一五〇年」(岩波新書)が届く。

一昨年、京都精華大学で行った講演をもとにまとめたもの。いつもながら山本さんの斬新な視点による丁寧が仕事ぶりに感心させられる。かつて少し技術教育について学んだ者として、しっかりと読ませていただきます。

内容紹介。

黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる近代日本は、国主導の科学技術振興による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と国民一丸となった総力戦体制として一五〇年続いた。近代科学史の名著と、全共闘運動、福島の事故を考える著作の間をつなぐ初の新書。日本近代化の歩みに再考を迫る。

出版社: 岩波書店 (2018/1/20)

2018年1月20日土曜日

梁山泊読書会「宮崎滔天著『三十三年の夢』」をテキストに。

梁山泊読書会「宮崎滔天著『三十三年の夢』」をテキストに。

久々に京都の書砦「梁山泊」の読書会に出席。
私の郷土(荒尾)の偉人、宮崎滔天をとりあげるとあっては参加しないわけにはいかない。落合さんと森さんの提案で、この本を題材に。
東アジアと日本の関係を見直すうえで、明治の人たちのアジア観を探っていくのはとても勉強になる。
西郷隆盛の征韓論とは何だったのか。
日本の大陸浪人たちの役割は
中国革命における影響は

改めて読み直すうえで、熊本県の風土、気質について考えさせられた。西南の役で戦死した宮崎八郎につらなる宮崎民蔵、弥蔵、寅蔵(滔天)の兄弟のすさまじい生き方に、熱い感動を覚える。
特に渡辺京二の評伝「宮崎滔天」(大和書房)は、評伝としては傑出した作品で、教えられることが多かった。、

森さんから宮崎八郎の書と詩をとりあげた写真をいただいた。なかなかいい。



2018年1月5日金曜日

(50年前の今日)1968年1月5日の日録から。

(50年前の今日)1968年1月5日の日録から。

沖縄から本土に戻る。
・船のデッキで、中山さんからたくさんの労働歌を教えてもらう。中山さんはうたごえ運動をやっていたようだ。
14時30分、鹿児島港に入港。15時、下船。西鹿児島駅前の食堂で、中山さんとすき焼きを食べ、再会を期して乾杯!(結局、その後、再会することはなかった。それにしても、よくお酒を飲んでいる!)
22時40分、荒尾の自宅に戻る。

2018年1月4日木曜日

(50年前の今日)1968年1月4日の日録から。

(50年前の今日)1968年1月4日の日録から。

沖縄にて。
・沖縄に来るとき船中で知り合った名古屋の中山さん(確かトヨ・ストーブに勤務していた)と合流し、国際通りで買い物をした。
・その後、叔父(竹原巌さん)の戦友だった琉球銀行支店長の中村さんに挨拶に行き、中山さんといっしょに昼食をご馳走になる。

・午後、那覇の港から船に乗り込む。多くの人が見送りにきていて、たくさんの鮮やかな紙テープが波打ち、乗客との間をつないでいた。「沖縄を返せ」の合唱が流れ、いろんな団体間でマイクによる挨拶の声が響き渡っていた。ある中学生は日の丸の旗を振っていた。
 ぼんやりと見送りの人たちをデッキで眺めていると、岸壁の最前列で、しきりに手を振り、「自分の胸を指して、僕だよ、僕だよ!」と言っている人がいた。
 旅の途中、「泊めてもらおう」と突然、飛び込んでいった真和志中学校の先生だった。その夜、先生たちの忘年会をやっていて、見ず知らずの私の歓迎会に切り替えてくれたひとだ。
 船の別れは、惜別の情を駆り立てる。あの時の光景は忘れられない。
(下の写真は、真和志中学校の宿直室にて)


2018年1月3日水曜日

(50年前の今日)1968年1月3日の日録から。

(50年前の今日)1968年1月3日の日録から。

沖縄にて
・朝、目を覚めると、キャプテンはすでに出かけており、奥さんと基地労働者のお姉さんが口論していた。「米軍は基地労働者の健康診断の名目で、採血し、それをベトナムで傷ついた米兵の治療に使っている。米軍は吸血鬼だ」と、そのお姉さんは怒っていた。

・コザ市の市会議員、新崎さんと知り合いになり、新崎さんの車で嘉手納基地内に入って、見学する。ゴルフ場まである広大な基地に驚かされる。

・この晩も米兵の宿舎に泊まっている。

2018年1月2日火曜日

(50年前の今日)1968年1月2日の日録から

(50年前の今日)1968年1月2日の日録から

沖縄にて
観光バスで南部戦跡めぐりをする。バスのなかで、「沖縄を返せ」の合唱が起きる。

伊佐に歩いて向かう途中、帽子を落としたのをみていた米兵が「ヘイ! 帽子を落としたぞ」と拾ってくれた。そのまま米兵の嘉手納基地内の宿舎に泊めてくれた。奥さんは沖縄の人だった。(旅って、なにをきっかけに誰と知り合えるか、わからない。楽しいものだ、と実感した)




2018年1月1日月曜日

(50年前の今日)2018年始まる。

(50年前の今日)2018年始まる。
新しい年が明けた。
この春には69歳になる。父が亡くなった歳を迎えることになる。
折にふれて、50年前の青春の日々を振り返りながら、日録を続けてみたくなった。、

50年前の1968年1月1日はどんな年だったのか。
18歳のときの日録を見てみると。

沖縄にて
1967年12月30日夜、那覇の波之上宮を回り、前島小学校の宿直室泊。
31日深夜、沖縄戦最後の激戦地、摩文仁の丘に訪ね、夜を過ごし、初日の出を見る。
寒くて「泡盛」をしこたま飲んで、過ごしたことを覚えている。
この日は、コザ市(現沖縄市)の越来中学校の宿直室に泊めてもらっている。
また「知念、仲宗根、中村先生とBARに飲みにいく。BARにいくのは初体験」とある。さらに中村先生から「人間グズになれ、何ができるというのか」という言葉が印象に残るとも記している。