2019年6月19日水曜日

巌浩氏(いわお・ひろし=元「日本読書新聞」編集長)の逝去の知らせが届く。



「巌浩氏(いわお・ひろし=元「日本読書新聞」編集長)」のニュースを知人から届く。
「12日午後4時5分に死去、94歳。大分県出身。葬儀・告別式は近親者で行った。喪主は義妹幾代(いくよ)さん。」。共同通信の速報のようだが、この配信を現在の新聞編集者がどのように受け止めるか、わからない。
巌さんを囲んで梁山泊やT邸で懇談したことを思い出しています。影書房、未来社の編集者だった故・松本昌次さんもそうだが、かつて時代をリードした編集者の存在の大きさを感じさせられる。合掌。
写真は戦後の思想家について熱く語る巌浩さん(2011年6月、京都にて。池田知隆撮影)


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(当時の日記から)
巌さんは、血盟団のこと、旧制七高の先輩だった四元義隆氏との出会いから軍隊生活のことを軽妙に語り、まるで落語、講談を聞いているようなようだった。
「伝統と現代」の雑誌を発行し、月刊から隔月刊、季刊となり、借金に追われてしまったこと、禅寺、春日大社で寺男としての暮らし。
その人生の起伏の大きさに感嘆させられ、午後1時から7時すぎまでなんと6時間以上も談笑が続いた。ああ、愉快だった。
今思うに、発言録を残しておけば、よかった。

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弦書房の著者紹介から
1925年、大分県津久見市生まれ。第七高等学校を経て144年、東大文学部入学。1945年1月~9月、陸軍都城連隊、阿蘇山中にて終戦。46年復学、49年卒業。日本読書新聞をへて、伝統と現代社設立。「伝統と現代」を発行。現在、三重県津市の「アララギ派」会員。熊本の季刊「道標」や東京の同人誌「丁卯」に連載執筆中。(弦書房・著者紹介から)
〈歌文集〉 浪々 発行:弦書房
著者はかつて「日本読書新聞」と「伝統と現代」を主宰した伝説の編集者。竹内好、谷川雁、吉本隆明、橋川文三、柳田國男など錚々たる知識人たちとの交流をもったあと、出版界を離れ労務者生活を送る。現在は京都在住で、本書は熊本の季刊誌「道標」や東京の同人誌「丁卯」に連載された歌と随筆をまとめたもの。変転する〈旅〉の物語とともに自然と人間の織りなす情景を、豊かにそしてのびやかに綴った歌文集。






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qfwfqの水に流して Una pietra sopra
2011-06-05
海に散るさくら吹雪

 巖浩(いわお・ひろ)のことを、わたしはなぜか谷川雁のような人だと思っていた。元日本読書新聞の編集長、“伝説の編集者”である*1。
 「なぜか」と書いたが、じつは理由がなくもない。ふたりとも九州の生れで谷川雁の本名が巖であること、巖浩の後を継いで日本読書新聞の編集長となった定村忠士と谷川雁とがのちに協働したことなどが渾然一体となってそうしたイメージを形成していたのだろう。そういえば定村忠士は谷川雁と同じく五高・東大卒で、雁の弟の谷川公彦と定村は五高・東大・日本読書新聞・日本エディタースクールと行動を共にした盟友である。雁は1923年熊本生れ、巖浩は1925年大分生れである。
 巖浩は七高を出て東京大学に入学した三か月後に応召して陸軍都城連隊に所属、九か月の軍隊生活ののち阿蘇山中にて終戦を迎える。あくる年復学し、49年に卒業して日本読書新聞に入社する。ながねん編集長を務め65年に退社、現代ジャーナリズム出版会を設立。70年より雑誌「伝統と現代」を復刊し、編集長を務める。70年に大学に入学したわたしは、「ユリイカ」や「現代詩手帖」、「情況」「現代の眼」といった雑誌とともに「伝統と現代」も愛読した。わたしが日本読書新聞に入社するのは76年、巖浩や定村忠士、谷川公彦は先輩編集者としてすでに伝説的な名前だった。
 1963年12月、巖浩は当時雑誌「太陽」の編集長だった谷川健一の依頼で、同誌にルポルタージュを執筆するためにアフリカへの遠洋漁業の船に乗り込んだ。のちに「まる九十日の航海と労働の日々」にふれて書かれた文章と短歌が、このたび刊行された『歌文集 浪々』の巻頭に「航海のはなし」として置かれている。


 わが乗るはまぐろ延縄(はえなわ)漁師船泥船ならず縄船といふ
 時化(しけ)荒れて醤油のびんも人間も立つてゐられぬなかで飯食ふ
 マラツカの海峡しんと暗くして投身さそふ海と聞くなり
 いつまでも動く小さき小さき口よまんばうを割く時のかなしみ


 雄渾な詠いぶりだ。
 巖浩は伝統と現代社の倒産を機に妻と二人で沼津の松陰寺に住み込み、浩は寺男としてはたらく。松陰寺はわたしも仕事で訪れたことがある白隠禅師ゆかりの寺である。時に1984年、浩はまもなく還暦を迎えようとしていた。
 沼津での生活を一年半で切り上げ、二人は奈良に移り住む。春日大社の雑務の仕事に就くためであった。巖浩が短歌に親しむようになったのは春日大社での労務仕事を辞めた後、某教授に請われて春日大社で催される万葉文学講座の手伝いを始める1997年のことである。
 本書には如上の浪々の日々をしるした散文と短歌が収められている。


 「昭和六十一年(一九八六)から平成十五年(二〇〇三)まで十七年間の奈良住い。大まかに言えばそのうち約六年が労働生活のつづき、三年ほどが女房瑠璃子の進行してゆく病気との係り、その死後、万葉文学講座を手伝ってこれが五年にわたり、途中から講座の講師のすすめで、併行して短歌なるものを少しずつ作るようになった。」(「奈良残日――此岸と彼岸と」)


 妻の看護と別れとを歌った歌から引いておこう。


 夢とうつつ入り乱れゆく妻と居てともに乱れて一日(ひとひ)暮れたり
 凌霄花(のうぜんかづら)の花を無花果かと指して問ふその名をわれに教へし汝が
 回復の見込みなき妻の片言の「やさしくしてね」に笑み返せしが
 入れ歯はめてやるを忘れし悔ひがある告別の時の死顔思へば


 妻の死後、浩は万葉文学講座で知り合った女性と京都で一緒に暮らしはじめる。現在八十六歳、巖浩の伝記を著した井出彰によれば「巖さんは怪物と呼ばれているほど元気だ」という。
 西日本新聞の評者は、本書を評して「一読、歌に腰折れなく、語るに文飾なく、人生波濤の余響がある」*2と書く。


 海に散るさくら吹雪のたまゆらの白き光をいくたびも見る (花綵列島)


 巖浩の一層の健勝を庶幾する。

〈歌文集〉浪々
〈歌文集〉浪々

作者: 巖浩
出版社/メーカー: 弦書房
発売日: 2011/02/05
メディア: 単行本(ソフトカバー)
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*1:同じく元日本読書新聞の編集長で現在、図書新聞代表の井出彰氏の著書に『伝説の編集者・巖浩を訪ねて』(社会評論社、2008)がある。帯文をかつて日本読書新聞の編集者であった渡辺京二氏が書いている。写しておこう。「『吉本・谷川新聞』などと戯称されつつ、安保闘争後の思想状況を切り開いた『日本読書新聞』。低迷する八〇年代に思想の孤塁をまもった『伝統と現代』。この両者を主宰した巖浩は前者の読者をうならせた名コラム『有題無題』の筆者でありながら、青臭い観念が大嫌いな柔道とりでもあった。思想とは生きるスタイルのことだと信じ、出版界から脱離して労務者暮らしまで経験した老辣無双のリベルタンの軌跡がいま明かされる。」

*2:西日本新聞2011年4月17日附け朝刊

2019年4月1日月曜日

新元号が「令和」に決まり、それを伝える毎日新聞夕刊(大阪本社版)の「憂楽帳」で『陛下にヨロシク』が紹介されました。

新元号が「令和」に決まり、それを伝える毎日新聞夕刊(大阪本社版)の「憂楽帳」で『陛下にヨロシク』が紹介されました。当時の支局同人たちとドタバタした思い出が懐かしくよみがえってきます。



京都支局同人たちと。「平成」を伝える記事と手に。



2019年1月1日火曜日

2018年10月26日金曜日

(いただいた本から)写真集「ひがた記」(太田順一著)

(いただいた本から)写真集「ひがた記」(太田順一著、海風社)

 大学時代の級友だった写真家、太田順一さんから送られてきた。1969年、早稲田のキャンバスで出会ったが、その後、彼は中退して写真家になっていた。それを知ったのは1980年ごろ、大阪の警察署でのある夜のことだった。私は新聞記者になり、彼はカメラマンとして再会したのだった。
 これまでも写真集も素晴らしいものだが、最近の写真からは人物が消えている。この写真集は、干潟のさまざまな表情を撮影したものだが、写真の力に驚嘆させらた。私は、少年時代を有明海の干潟で遊びながら育っただけに、写真の一つひとつに胸に迫るものがある。
 本の帯で、宗教学者の山折哲雄さんはこう書いている。
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ひがたは笑い ひがたは怒り ひがたは沈黙する
北斎は、波の切っ先まで描いたが、この写真集に登場する「ひがた」は、その奥の大地のドラマに迫ろうとしている。
泥と砂の交替、逆巻く波の底から湧き上る原始の地図、ときに小鳥や小魚たちが記号のように群れ舞い、「ひがた」の紋様と傷をいろどる。
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〇出版社の「内容紹介」から
関西国際空港にほど近い岸和田市の沖合につくられた実験調査用の干潟。 石で築いた堤のなかに土砂を流し込んだもので、小学校の運動場ぐらいの広さしかない。 いわば、人工物の干潟に二年間通いつめて撮影された写真の数は数千点にものぼる。 そのうちの120点が驚くほど様々な表情を見せている。 撮影に通いながら心に浮かんだエッセイ12篇も秀逸。

〇出版社の立ち読み案内から

小さな世界

 大学生だったころ、メッセージ性の強いジャン=リュック・ゴダールの映画を随分と見た。私だけでなく映画好きの若者の多くがそうであったように思う。一九七〇年前後という政治が突出した時代ならではだったのだろう。
 今の私なら、あんな観念的で退屈な映画など見ようとは思わない(ジーン・セバーグが初々しい「勝手にしやがれ」だけは別だけど)。でも当時の私は、各シーン各カットが意味するものは何なのかと、それこそ観念的に必死で考えながらスクリーンと向き合っていた。
 今でもそらんじているゴダールの言葉がある。何とも勇ましいアジテーションだが。
 「ブルジョワジーは自らの姿に似せて世界(イメージ)をつくる。同志諸君、我々はそのイメージを解体しなければならない」
 写真も社会の意識(イメージ)を形成するのに大きな役割を果たすメディアだ。しかし私は長年、ドキュメンタリーの分野で仕事をしてきたが、写真を「解体」のために使おうなんて考えたことは一度もない。写真は何かのための道具なんかではなく、それ自体が豊かで底の深いものだからだ。声高なものには、たとえそれが真実を語っているとしても、決して与(くみ)しまいと私は思い定めている。
 干潟で私が写しとめているのは生きものたちの小さな世界だ。人間界の逼迫した諸問題からは遠く離れているようにも見える。でも時々、こう感じたりする。本当はこの干潟のほうがとてつもなく大きな世界であって、私も人間界もちっぽけなものだ、と。

(3000円+税)

(いただいた本から)「ヤマケンのどないなっとんねんーアベ・ポピュリズムへの大阪戯画的政治批判」(山本健治著)

(いただいた本から)「ヤマケンのどないなっとんねんーアベ・ポピュリズムへの大阪戯画的政治批判」(山本健治著、第三書館)

 テレビのコメンテーター、フリーライターとして活躍している山本健治さんからいただきました。山本さんとは、新聞社の高槻駐在だった1980年代初めに知り合い、当時山本さんは高槻市議だった。自転車で市内を駆けまわり、軽妙に政治批判を続けていたが、その姿勢は大阪府会議員を経て、30数年たった今日になっても変わらない。
 大阪のミニコミ月刊誌「うずみ火」に連載したものが100回を数えたのを区切りにまとめたものだ。2010年4月から2018年7月までの9年間、、民主党をめぐる政権交代、橋下徹・大阪市長の大阪都構想、安倍政権による改憲の動きなど時代がどのように動いてきたのがよくわかる。
 
(2018年10月刊、1000円+税)

2018年9月22日土曜日

「日高六郎を語る会」から

 「行動する知識人」と呼ばれた社会学者で、6月7日に101歳で亡くなった日高六郎さんについて「語る会」が9月22日午後1時から、京都市左京区の京都大楽友会館で開かれた。

 私は10代半ばから、雑誌「世界」やエーリッヒ・フロム「自由からの逃走」の翻訳を通して、かなり深い影響を受けてきた。東大闘争の際に、機動隊導入に抗議して東大教授を辞職されたことにも衝撃を受けた。

 新聞記者になり、社会部高槻駐在だったころ、たしか1983年ごろだっただろうか、高槻市の教育研究集会に来られ、懇親会で隣に座っていっしょに鍋をつついたこともある。地域の小さな集まりにも気軽に来られ、親しみやすい人だった。

 フランスから帰国され、京都に住まわれていた2007年2月、下鴨のマンションでインタビューする機会をもつこともできた。そのときの写真も手元にある。(池田知隆撮影)。行動する知識人というイメージというよりも、とても謙虚な人だった。

 シンポジウムには高齢者を中心に約80人が参加。そので主な発言を紹介しておこう。
◎記念講演から

 ●樋口陽一さん(憲法学者・東大名誉教授)
演題「『人形となっていない人間』をー日高さんの憲法論ー」
・根源的という意味でラジカルな民主主義者であり、自己に対する厳しいまなざしがあった。
・東アジアの思想家としての存在感。
・含羞の知識人であった。
・軍国主義から民主主義へと時代が流れていく中で、「生活保守主義」が広がっていった。そんな中で、自ら「感動」したことを語り、「人形」でなく、「人間」として生きようとした。その志を受け継ぎたい。

最首悟さん(東大助手として全共闘運動に参加し、水俣病の学術調査を担った
演題「学者ではないと言い張った日高さん、水俣そして市民について」
・1968~69年の東大闘争のとき、日高さんは周囲への配慮から東大を去った。当時、作家の高橋和巳は「(大学における)共犯的加害者の苦しみ」や「自己を維持する苦しみ」を語り、その後、断腸の思いを抱きながら、亡くなった。その際、日高さんは「烈風を引き受けるといい、その本質的なものを引き受けていきたいと宣言していた。苦しみを引き受ける人であった。
・「日高さんが自分が学者ではない、といったのは、定型としての学者をはみ出したという意味だ。学問という型を壊し、人格に関わる営みとして学問を考えていた。また、自由な「遊民」として規定していたのではないか。

◎シンポジウムから「日高六郎から未来へと引き継げるもの」

(省略=後に余裕ができれば、みなさんの発言内容を加筆します)


(参考)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
(毎日新聞の訃報記事から)
日高六郎さん 101歳=社会学者 市民運動リード

 戦後の平和と民主主義運動の論客で、国民文化会議の代表として安保闘争やベトナム反戦、水俣病闘争など幅広い分野で市民運動をリードした社会学者の元東大教授、日高六郎(ひだか・ろくろう)さんが7日未明、入居していた京都市左京区の有料老人ホームで老衰のため亡くなった。101歳。本人の遺志で、妻暢子(のぶこ)さんら近親者だけで7日夕に密葬を営む。

 中国・青島市生まれ。1941年東大文学部社会学科卒。東大助手、海軍技術研究所嘱託を経て49年に東大新聞研究所助教授、60年教授。東大紛争を契機に69年退官、その後評論家活動を展開し、76~89年京都精華大教授を務めた。 

 著書に81年の毎日出版文化賞を受けた「戦後思想を考える」(岩波書店)をはじめ「現代イデオロギー」「日高六郎教育論集」など。訳書にE・フロム「自由からの逃走」がある。 
 「現代における人間の解放とは何か」を学問・実践の場で考える立場から、55年に創立された国民文化会議の代表として積極的に発言。60年の安保闘争では市民運動の旗手の一人として先頭に立ち、ベトナム戦争や水俣病などの公害問題などでも平和活動家の観点から実践的評論活動を展開した。 

 東大紛争の時「私が旗を振る時代は終わった」と苦悩の中で大学を去ったが、元社会党委員長の故飛鳥田一雄氏らと住民運動を対象にした総合雑誌「市民」を発行(その後廃刊)するなど、幅広い活動が共感を呼んだ。 
 87年には京都市の市民グループが起こした「君が代」斉唱の法的拘束力を問う訴訟に原告として参加。88年に野間宏氏らと共にフロンガスの規制強化を求める要望書を当時の竹下登首相に出したり、90年衆院選では「三〇〇億円金権選挙を憂える三〇〇人委員会」の発起人として金権選挙の監視を呼び掛けたりするなど活動は多岐にわたった。 
 89年にはエッセイストの暢子さんとパリ郊外へ移住したが、度々帰国し、発言を続けた。 

 2001年3月の国民文化会議解散に際しては「主要メンバーも高齢化し、新しい運動は若い世代によって行われるほかないと考えた」と述べた。しかし、その後も活動の意欲は衰えず、05年、ドキュメンタリー「映画日本国憲法」への出演と「戦争のなかで考えたこと」の刊行を機に一時帰国した際に「戦争と共に生きた世代は間もなくいなくなる」と憂えた。06年から体調が優れず京都に戻っていた。 

 30年来の知人男性が今年1月に面会した際にはベッドから起き上がって幼少期の中国での思い出を懐かしそうに語った。最近は寝たきりの状態だったが、今月1日にも短くあいさつを交わしたという。
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2018年9月21日金曜日

(いただいた本から)今村欣史著「触媒のうたー宮崎修二朗翁の文学史秘話」

今村欣史著「触媒のうたー宮崎修二朗翁の文学史秘話」

 神戸新聞の記者として兵庫県の文学界を中心に活躍されてこられた宮崎修二朗氏の貴重な証言を記録した文学談義を収めている。昭和33年に「のじぎく文庫」という異色の地域密着型の出版機関を立ち上げたほか、民俗学者・柳田国男氏の自叙伝を口述筆記されたり、足立巻一氏や田辺聖子氏など多くの文人と交流を持ってこられた宮崎翁は、文人と文人、文人と社会、文人と読者との間をつなぎ、そこに幾多の化学反応を起こした「触媒」だった。
 そんな宮崎翁と出会った今村氏は宮崎翁の言葉を「うた」として記録し、表現している。宮崎翁の人間的な魅力に惹かれた文人達たちの秘話の数々。今村氏は熱い思いで受け止め、文学史の貴重な記録として歴史に刻んでいる。心温まる書である。

神戸新聞総合出版センター刊
定価 1800円+税