2021年6月10日木曜日

松下昇の死から25年

  詩人であり、神戸大学造反教官だった松下昇さんが亡くなって25年になる。その教え子から一冊の追悼集が届いた。題して「松下損塾」(夢野中也著)。わが人生に”乾杯”なのか、わが人生は”完敗”なのか。恩師を慕って”損”をしたのか、その”損”をどのように深く受け止めるのか、松下教徒として生きた50年の歩みを綴っている。

 「各方面には連絡はしない。風の便りに任せる。葬式はしない。資料はすべて破棄してもよい」。松下さんはこんな遺言を残して、1996年5月6日、神戸・六甲山の坂道、自宅の近くの路上で倒れ、亡くなった。早朝だったので夜勤の仕事からの帰りの途上だったと思われる。享年60。

 松下さんは神戸大学のドイツ語教師だったとき、大学闘争の中で全共闘運動を支持した。「旧大学秩序の維持に役立つ一切の労働(授業、試験等)を放棄する」という趣旨の文章を掲示板に貼りだし、職務拒否宣言を出した。東京大学に在学していた60年安保闘争で、国会議事堂前で樺美智子さんが亡くなったとき、同じデモ隊の隊列にいたという。

 大学で授業再開後、松下さんは学内で自主講座を開いたが、大学は懲戒解雇処分を決定。裁判闘争を続けながら、学内で「たこ焼き屋」を開いたことでも話題になった。その後の暮らしは極貧だった。障害を抱えていた息子さんは小学校入学式の当日、心臓発作で急逝した。娘さんの修学旅行費用にも不自由し、亡くなるまで背広は2着だけだったという。

 大学入学後、松下さんのそばで付き添うように生きてきた夢野さん(筆名)は8年後に「大学への絶望届」を出して中退。さまざまな職業を転々としたあと、落ちこぼれ救済の学習塾を開いた。

 夢野さんは、松下さんの遺体が寝台車に運ばれる直前、松下損塾の塾生として、たった一人でギターの弾き語りをした。歌は「仰げば尊し」。松下さんの妹さんがおいおい泣いていたという。

 冊子には「長い間、私なりの課題として宿していた松下昇氏のことを書いてみました」との便りが添えられていた。25年前に「松下昇の沈黙」と題して書いた私の記事を思い出し、送ってくれた。

 忘れ去られた教師を長い間、偲び続けている教え子の熱い思いに感動させられた。

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