2018年1月24日水曜日

(いただいた本から)西原大輔著「本詩取り」(七月堂)

(いただいた本から)西原大輔著「本詩取り」(七月堂)


広島大学教授の西原さんから素敵な本が送られてきた。いつもながら、装丁がおしゃれな小型本です。(10数年前、日文研の共同研究の勉強会で、ご一緒して以来、本をお送りいただき、ありがとうございます)

「本歌取り」ならぬ「本詩取り」とは西原さんの造語です。すべて短い詩が「本詩取り」の手法で作られ、収められています。西原さんは

 「人間が感じ考えることは、古典文学に表現されつくされています。僕ができるのは、過去の人類の文学遺産を遥かに仰ぎ見て、これに新しい言い方を加えるだけです。これこそすなわち、僕が『本詩取り』を試みる所以です。古きを温め新しさを知る、と言い替えても良いでしょう」

 といっています。
 序詞、「詩集を読んで下さる方へ」として

  詩か詩でないかはわかりません
  わずかな文字の連なりです
  あなたが読んでくだされば
  心が活字を詩に変える

 と書かれてありました。
 七月堂刊
 2000円+税
 



2018年1月22日月曜日

(いただいた本から)山本義隆著「近代日本一五〇年」(岩波新書)

(いただいた本から)
山崎博昭プロジェクトを通して知り合った山本義隆さんから新著「近代日本一五〇年」(岩波新書)が届く。

一昨年、京都精華大学で行った講演をもとにまとめたもの。いつもながら山本さんの斬新な視点による丁寧が仕事ぶりに感心させられる。かつて少し技術教育について学んだ者として、しっかりと読ませていただきます。

内容紹介。

黒船がもたらしたエネルギー革命で始まる近代日本は、国主導の科学技術振興による「殖産興業・富国強兵」「高度国防国家建設」「経済成長・国際競争」と国民一丸となった総力戦体制として一五〇年続いた。近代科学史の名著と、全共闘運動、福島の事故を考える著作の間をつなぐ初の新書。日本近代化の歩みに再考を迫る。

出版社: 岩波書店 (2018/1/20)

2018年1月20日土曜日

梁山泊読書会「宮崎滔天著『三十三年の夢』」をテキストに。

梁山泊読書会「宮崎滔天著『三十三年の夢』」をテキストに。

久々に京都の書砦「梁山泊」の読書会に出席。
私の郷土(荒尾)の偉人、宮崎滔天をとりあげるとあっては参加しないわけにはいかない。落合さんと森さんの提案で、この本を題材に。
東アジアと日本の関係を見直すうえで、明治の人たちのアジア観を探っていくのはとても勉強になる。
西郷隆盛の征韓論とは何だったのか。
日本の大陸浪人たちの役割は
中国革命における影響は

改めて読み直すうえで、熊本県の風土、気質について考えさせられた。西南の役で戦死した宮崎八郎につらなる宮崎民蔵、弥蔵、寅蔵(滔天)の兄弟のすさまじい生き方に、熱い感動を覚える。
特に渡辺京二の評伝「宮崎滔天」(大和書房)は、評伝としては傑出した作品で、教えられることが多かった。、

森さんから宮崎八郎の書と詩をとりあげた写真をいただいた。なかなかいい。



2018年1月5日金曜日

(50年前の今日)1968年1月5日の日録から。

(50年前の今日)1968年1月5日の日録から。

沖縄から本土に戻る。
・船のデッキで、中山さんからたくさんの労働歌を教えてもらう。中山さんはうたごえ運動をやっていたようだ。
14時30分、鹿児島港に入港。15時、下船。西鹿児島駅前の食堂で、中山さんとすき焼きを食べ、再会を期して乾杯!(結局、その後、再会することはなかった。それにしても、よくお酒を飲んでいる!)
22時40分、荒尾の自宅に戻る。

2018年1月4日木曜日

(50年前の今日)1968年1月4日の日録から。

(50年前の今日)1968年1月4日の日録から。

沖縄にて。
・沖縄に来るとき船中で知り合った名古屋の中山さん(確かトヨ・ストーブに勤務していた)と合流し、国際通りで買い物をした。
・その後、叔父(竹原巌さん)の戦友だった琉球銀行支店長の中村さんに挨拶に行き、中山さんといっしょに昼食をご馳走になる。

・午後、那覇の港から船に乗り込む。多くの人が見送りにきていて、たくさんの鮮やかな紙テープが波打ち、乗客との間をつないでいた。「沖縄を返せ」の合唱が流れ、いろんな団体間でマイクによる挨拶の声が響き渡っていた。ある中学生は日の丸の旗を振っていた。
 ぼんやりと見送りの人たちをデッキで眺めていると、岸壁の最前列で、しきりに手を振り、「自分の胸を指して、僕だよ、僕だよ!」と言っている人がいた。
 旅の途中、「泊めてもらおう」と突然、飛び込んでいった真和志中学校の先生だった。その夜、先生たちの忘年会をやっていて、見ず知らずの私の歓迎会に切り替えてくれたひとだ。
 船の別れは、惜別の情を駆り立てる。あの時の光景は忘れられない。
(下の写真は、真和志中学校の宿直室にて)


2018年1月3日水曜日

(50年前の今日)1968年1月3日の日録から。

(50年前の今日)1968年1月3日の日録から。

沖縄にて
・朝、目を覚めると、キャプテンはすでに出かけており、奥さんと基地労働者のお姉さんが口論していた。「米軍は基地労働者の健康診断の名目で、採血し、それをベトナムで傷ついた米兵の治療に使っている。米軍は吸血鬼だ」と、そのお姉さんは怒っていた。

・コザ市の市会議員、新崎さんと知り合いになり、新崎さんの車で嘉手納基地内に入って、見学する。ゴルフ場まである広大な基地に驚かされる。

・この晩も米兵の宿舎に泊まっている。

2018年1月2日火曜日

(50年前の今日)1968年1月2日の日録から

(50年前の今日)1968年1月2日の日録から

沖縄にて
観光バスで南部戦跡めぐりをする。バスのなかで、「沖縄を返せ」の合唱が起きる。

伊佐に歩いて向かう途中、帽子を落としたのをみていた米兵が「ヘイ! 帽子を落としたぞ」と拾ってくれた。そのまま米兵の嘉手納基地内の宿舎に泊めてくれた。奥さんは沖縄の人だった。(旅って、なにをきっかけに誰と知り合えるか、わからない。楽しいものだ、と実感した)




2018年1月1日月曜日

(50年前の今日)2018年始まる。

(50年前の今日)2018年始まる。
新しい年が明けた。
この春には69歳になる。父が亡くなった歳を迎えることになる。
折にふれて、50年前の青春の日々を振り返りながら、日録を続けてみたくなった。、

50年前の1968年1月1日はどんな年だったのか。
18歳のときの日録を見てみると。

沖縄にて
1967年12月30日夜、那覇の波之上宮を回り、前島小学校の宿直室泊。
31日深夜、沖縄戦最後の激戦地、摩文仁の丘に訪ね、夜を過ごし、初日の出を見る。
寒くて「泡盛」をしこたま飲んで、過ごしたことを覚えている。
この日は、コザ市(現沖縄市)の越来中学校の宿直室に泊めてもらっている。
また「知念、仲宗根、中村先生とBARに飲みにいく。BARにいくのは初体験」とある。さらに中村先生から「人間グズになれ、何ができるというのか」という言葉が印象に残るとも記している。